第2章:冷徹社長との契約
後日、美月は橘の運転する高級車に乗せられ、都心の一等地にそびえ立つガラス張りの超高層ビルへと案内された。そこが、大手アパレル・コスメ企業「Éclat」の本社だった。ロビーを行き交う洗練された社員たちの姿に気圧されながら、美月は専用エレベーターで最上階の社長室へと向かう。
「どうぞ。涼様がお待ちです」
橘に促され、重厚な扉の前に立つ。心臓が早鐘のように打ち、手のひらにじっとりと汗が滲んだ。これから会うのは、自分の人生を左右する契約の相手。そして、一年間だけ、夫となる人だ。
深呼吸をして中へ足を踏み入れると、そこは別世界だった。床から天井まで続く一面の窓からは、東京の街並みがジオラマのように広がっている。広大な空間には、ミニマルで高級な家具が配置されているだけ。その部屋の奥、巨大なマホガニーのデスクに、一人の男性が座っていた。
九条涼。
ファッション雑誌の表紙から、そのまま抜け出してきたかのような男だった。シャープな輪郭に、通った鼻筋。知性を感じさせる切れ長の瞳と、形の良い唇。完璧に仕立てられたダークスーツが、彼の非の打ち所のないスタイルをさらに引き立てている。しかし、その整いすぎた顔には、人間的な感情の色が一切浮かんでいなかった。まるで、精巧に作られた彫像のようだ。
彼が顔を上げ、美月を値踏みするように一瞥する。その氷のように冷たい視線に射抜かれ、美月は思わず体をこわばらせた。
「君が、葵美月か」
感情の起伏が全く感じられない、低く平坦な声だった。彼は立ち上がることもなく、手元の書類に視線を戻したまま、淡々と口を開く。
「橘から話は聞いているな。契約内容を改めて確認する」
彼はまるで、業務報告をするかのように、用意されていた契約書を読み上げ始めた。
「契約期間は本日より一年間。期間満了後、双方合意の上で円満に離婚する。その際、慰謝料等は一切発生しない。期間中、互いのプライベートには一切干渉しないこと。公の場では、僕の妻として完璧に振る舞ってもらう。僕の住むマンションを提供するが、僕の書斎への立ち入りは固く禁ずる。家のことは君に任せるが、余計なことはするな」
その言葉の数々には、一片の温かみも、人間的な配慮もなかった。ただただ、ビジネスライクな条件が並べられるだけ。噂通り、この人は本当に他人に、特に女性に興味がないのだと、美月は痛いほど実感した。目の前にいるのは、か弱い女性ではなく、ただの「契約対象」でしかないのだ。
彼の圧倒的な存在感と、突き放すような冷たい空気に、美月は完全に萎縮してしまっていた。今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。けれど、もう後戻りはできないのだ。震える足に、ぐっと力を込める。
ここで引き下がったら、ただ彼の言いなりになるだけだ。せめて一つだけ、自分の大切なものを守らなければ。
美月は意を決して、か細い声を振り絞った。
「あ、あの……!」
涼が訝しげに顔を上げる。彼の無感情な瞳と視線がぶつかり、心臓が跳ねた。
「契約書には、書かれていないのですが……一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「もし、よろしければ……住まわせていただくお部屋の片隅で、私の趣味を続けても、よろしいでしょうか……?」
彼の眉が、わずかに寄せられる。趣味?と言いたげな、怪訝な表情だった。こんな状況で、何を馬鹿なことを、と思われているのかもしれない。それでも、美月は引けなかった。アクセサリー作りは、彼女の魂そのものなのだ。
しばらくの沈黙の後、涼は興味を失ったようにふいと視線を逸らした。
「……好きにすればいい。ただし、僕の邪魔はするな」
許可は、無関心という形で与えられた。その言葉に、美月は心の底から安堵した。部屋の隅で見ていた橘が、どこかほっとしたような表情を浮かべたことに、彼女は気づかなかった。
「では、ここにサインを」
涼に促されるまま、美月はデスクの前に進み出た。契約書に書かれた自分の名前の横に、震える手でサインをする。これで、自分は「九条美月」になった。たった一年だけの、偽りの名。
サインが済むのを確認すると、涼はもう美月には何の関心も示さなかった。
「それで結構だ。橘、後のことは任せる。明日、僕のマンションに越してきなさい」
そう一方的に告げると、彼はすぐに分厚いファイルを開き、仕事の世界へと戻ってしまった。まるで、一つの取引を終えただけ、とでも言うように。
美月は、橘に促されて社長室を後にした。これから始まる、奇妙な結婚生活。氷のように冷たいあの人と、同じ屋根の下で暮らす一年間。途方もない不安が胸に渦巻いていたが、彼女は自分に言い聞かせた。もう、後戻りはできないのだ、と。
こうして、灰かぶりの日々を送っていた少女と、心を閉ざした冷徹社長の、奇妙な共同生活が静かに幕を開けたのだった。




