番外編1:九条涼の視点『計算外のぬくもり』
俺の人生は、常に計算の上に成り立っていた。事業計画、株価の変動、市場の動向。全ての事象を数字と論理で捉え、最も合理的で、最も効率的な解を導き出す。そこに、感情という不確定要素が入り込む余地はなかった。
愛や信頼など、最も非合理的なものだと思っていた。かつての裏切りが、俺の心を氷の城壁で覆い尽くしてしまったからだ。
だから、あの契約結婚も、俺にとってはただのビジネス取引の一つに過ぎなかった。祖父や周囲の面倒な干渉を一年間だけ回避するための、コストパフォーマンスに優れた解決策。葵美月という女は、そのための「駒」でしかなかったはずだ。
だが、彼女が俺の無機質なマンションに足を踏み入れたその日から、俺の完璧な計算式は、少しずつ、しかし確実に狂い始めた。
最初の計算外は、あの夜食だった。過労で倒れ込んだ俺の前に、彼女が差し出した温かいお茶漬け。いらないと突き放したのに、体に染み渡った優しい出汁の味は、俺がもう何年も忘れていた「人の温もり」そのものだった。空の器を洗いながら、カウンターに「悪くなかった」とメモを置いた時の、自分でも信じられないほどの照れ臭さ。あれは一体、何だったのだろう。
決定的な計算外は、彼女の部屋で偶然目にしてしまった、あのアクセサリーだった。
ビジネスマンとしての俺の直感が、瞬時に「これは売れる」と告げていた。だが、それと同時に、俺個人の心が、その素朴で、不完全で、しかし力強い美しさにどうしようもなく惹きつけられていることに気づいてしまった。あんなにもか細い彼女の指先から、こんなにも優しく、温かいものが生まれるという事実に衝撃を受けた。その時から、俺は「葵美月」という人間そのものに、抗いがたい興味を抱き始めていたのだ。
パーティーで、西園寺麗華の侮辱から彼女を守った時のこと。あれは、契約上の義務感だけではなかった。自分の大切な宝物を、価値もわからない他人に汚されるのが、ただ、我慢ならなかった。あの時、俺はもう自覚していたのかもしれない。彼女は、俺にとって単なる「契約相手」ではないのだと。
彼女に惹かれていく自分を認めるのが怖くて、戸惑い、わざと冷たい態度でごまかしていた、情けない日々。だが、スキャンダルが起きて、彼女が俺の前から消えようとした時、全ての計算や理屈は吹き飛んだ。ただ、彼女を失いたくない。その本能的な感情だけが、俺を突き動かした。
だから、あの記者会見で愛を告白した時、俺の心には一片の迷いもなかった。
計算ずくで始めたはずの関係が、俺の人生において最も計算外で、そして何よりも価値のある、最高の宝物に変わっていた。
俺の腕の中で眠る彼女の寝顔を見つめながら、俺は静かに結論づける。
人生で最高のものは、いつだって計算の外からやってくるらしい。




