第12章:二人きりの出張と、抑えきれない想い
契約満了まで、残り二週間。そんなある日、『Lune Fleur』の海外展開に向けた視察のため、涼と美月は二人きりでフランスのパリへ出張することになった。いつもなら同行する秘書の橘が、別の急な用件で日本に残ることになり、偶然にも、それは初めての二人だけの旅となった。
パリの街は、何もかもが芸術的で、ロマンチックだった。
昼間は、現地のデパートやセレクトショップを回り、市場調査を行う。仕事モードの二人は、いつも通り活発に意見を交わし、プロフェッショナルなパートナーとして振る舞った。
しかし、仕事が終わった夜、二人の間の空気はがらりと変わった。
涼は、美月をセーヌ川のほとりの散策に誘った。きらめく川面と、ライトアップされたエッフェル塔を眺めながら、二人並んで石畳の道を歩く。行き交う恋人たちの楽しそうな笑い声が、二人のぎこちない心を少しずつ解きほぐしていくようだった。
またある夜には、モンマルトルの丘の近くにある、観光客など誰もいないような小さなビストロに連れて行ってくれた。美味しいワインと家庭的なフランス料理に舌鼓を打ちながら、仕事以外の、他愛もない話をした。美月が幼い頃の思い出を話すと、涼は静かに、でも真剣に耳を傾けてくれた。それは、まるで本物の恋人同士が過ごすような、穏やかで甘い時間だった。
パリの魔法が、意地っ張りで不器用な二人の心を、少しずつ素直にさせていく。契約や、過去や、未来のことなど、この瞬間だけは忘れてしまいたい。そう、二人ともが願っていた。
そして、視察の最終日の夜。
二人は再び、モンマルトルの丘の上に立っていた。サクレ・クール寺院の白亜のドームが月光を浴びて輝き、眼下には宝石箱をひっくり返したような、息をのむほど美しいパリの夜景が広がっていた。
しばらく無言でその景色を眺めていた涼が、おもむろに口を開いた。
「葵」
「……はい」
「君と出会って、僕の世界は色づいた」
それは、詩の一節のような、不器用で、けれど心の底から絞り出したような感謝の言葉だった。
「僕の人生は、ずっとモノクロームだった。仕事、数字、結果。それ以外のものには、何の意味も見出せなかった。だが、君が作ったあの夜食の味も、君が生み出すアクセサリーの輝きも、君が時折見せる笑顔も……全部が、僕の無機質な世界に、彩りと、温もりをくれた」
その言葉に、ずっと堪えていた美月の想いが、堰を切ったように溢れ出した。
「私も……私も、涼さんと出会えて、本当に幸せでした。借金に追われて、明日生きるのもやっとだった私に、あなたは夢と、居場所をくれました。あなたの隣にいられたこの一年は、私の人生の、宝物です」
彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、夜景の光を反射してきらりと光る。
その涙を見た瞬間、涼の中で、最後の何かがぷつりと切れた。もう、自分の気持ちを偽るのは限界だった。契約だとか、プライドだとか、そんなものはどうでもいい。ただ、目の前にいるこの愛しい女性を、失いたくない。
彼は、衝動のままに美月の腕を強く掴み、自分の方へと引き寄せた。驚く美月の顔が、すぐ間近にある。
「契約だから、という理由はもういらない。美月、僕は君を……」
僕は君を、愛している。
その言葉を、今度こそ伝えようとした、その瞬間だった。
――ピリリリリッ!
静寂を切り裂くように、涼のポケットの中でスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。表示された名前は『橘健司』。こんな時間に、日本にいる彼から緊急の連絡など、よほどのことがない限りあり得ない。
涼は一瞬躊躇ったが、仕事の緊急事態かもしれないと思い直し、電話に出た。
「橘か、どうした」
『社長!大変です!』
電話の向こうから聞こえてきたのは、橘の切羽詰まった声だった。
『西園寺麗華が……!彼女が、週刊誌に、社長と奥様の契約結婚の証拠をリークしたようです!今、ネットニュースで一斉に報じられています!』
「……何だと?」
橘の言葉に、涼の顔から血の気が引いた。最高の雰囲気は、最悪のニュースによって、一瞬にして打ち砕かれる。
隣で、何が起こったのかわからずに不安そうな顔で見つめる美月。
二人は、甘くロマンチックな夢の頂点から、冷たく厳しい現実の奈落へと、一気に突き落とされたのだった。




