第11章:近づく契約満了と、揺れる心
涼の体調が回復し、『Lune Fleur』の新作コレクションも、伝統技術との融合という新たな価値を伴って、大成功を収めた。ブランドの地位は盤石なものとなり、会社の業績にも大きく貢献した。
仕事のパートナーとして、涼と美月の関係は、最高の状態にあると言えた。社長室でデザインについて議論を交わし、互いの才能を認め合い、尊敬し合う。その時間は、二人にとって何物にも代えがたい、充実したひとときだった。
しかし、皮肉なことに、そんな公私ともに満たされた日々の裏で、非情なタイムリミットが刻一刻と近づいていた。
最初の契約から、一年。
その期限が、あと一ヶ月後に迫っていた。
涼も美月も、その事実を意識しないように、努めて普段通りに振る舞っていた。けれど、ふとした瞬間に、その重い現実が二人の心に暗い影を落とす。
この快適で、刺激的で、そして何より心満たされる生活も、もうすぐ終わる。この絶妙な距離感で築き上げてきた、特別な関係も、全て解消される。そう思うと、どちらからともなく、胸がぎゅっと苦しくなるのだった。
そんな二人の複雑な心境を知ってか知らずか、涼の祖父である会長は、すっかり上機嫌だった。孫夫婦が力を合わせて会社を盛り立てている様子(会長の目には、二人が仲睦まじい本物の夫婦に映っている)に大喜びし、最近では会うたびに「涼もようやく身を固めてくれて、わしも安心だ。そろそろ、可愛い曾孫の顔が見たいのう」などと言い出す始末だった。
涼は「まあ、そのうちに」などと巧みにはぐらかすが、隣でそれを聞いている美月の心は、罪悪感と切なさでちくりと痛んだ。優しいお祖父様を、私たちは騙しているのだ、と。
ある夜。新作コレクションの成功を祝うささやかな打ち上げをプロジェクトチームで行い、その帰りに二人でマンションへと戻ってきた時のことだった。リビングのソファに並んで座り、どちらともなく窓の外の夜景を眺めていた。心地よい沈黙が、逆にこれから訪れる別れを予感させ、美月はたまらない気持ちになった。
彼女は、ずっと胸の中にしまっていた不安を、勇気を振り絞って口にした。
「あの……涼さん」
「なんだ」
「契約が……終わったら、私は、ここを出ていくんですよね……?」
その問いに、涼の肩がほんのわずかに強張ったのを、美月は見逃さなかった。彼は一瞬動きを止め、それからゆっくりと立ち上がると、彼女に背を向けたまま窓辺に立った。
「……それが、契約だ」
夜景に照らされた彼の横顔からは、感情が読み取れない。その声は、かつての彼のように、わざと冷たく響いた。
しかし、美月にはわかった。その声が、微かに、本当に微かに震えていたことを。
彼も、同じなのだ。自分と同じように、この関係が終わることを恐れている。美月を失いたくないと、思ってくれている。でも、過去の傷と、生来の不器用さが邪魔をして、素直な気持ちを口にすることができないのだ。
美月もまた、「嫌です」と、その一言が言えなかった。自分はもともと、お金で雇われた偽物の妻。彼にそんな我儘を言う資格などない。そう思うと、喉の奥が詰まって、言葉が出てこなかった。
お互いに、強く相手を想っているのに。その本物の気持ちを、どう扱っていいのかわからない。
偽りの関係から始まった二人は、本物の感情を前にして、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
二人の間には、これまでで最も気まずく、そしてどうしようもなく切ない空気が、重く、重く流れていた。




