第1章:灰かぶりの日々と、ありえない提案
登場人物紹介
◆葵 美月 24歳
亡き父が遺した借金返済のため、複数のアルバイトを掛け持ちする苦労人。手先が器用で、趣味で押し花を使ったレジンアクセサリーを作ることが唯一の癒やし。健気で心優しい性格だが、いざという時には覚悟を決められる芯の強さも持つ。
◆九条 涼 29歳
大手アパレル・コスメ企業「Éclat」の若き社長。眉目秀麗、頭脳明晰な完璧人間だが、仕事一筋で他人に無関心なため「女性に興味がない」と噂されている。祖父である会長から結婚を急かされ、面倒事を避けるため美月との契約結婚を画策する。
◆橘 健司 32歳
涼の有能な秘書であり、彼の数少ない理解者。涼の心を閉ざした過去を知っており、美月の出現によって彼が変わることを密かに期待している。二人の関係を温かく見守るお兄さん的存在。
◆西園寺 麗華 28歳
大手企業の社長令嬢。涼との政略結婚を当然のものと考えていたため、突然現れた美月を激しく敵視する。プライドが高く、欲しいものは手段を選ばず手に入れようとする。
ガチャン、と頼りない音を立てて鍵が閉まる。葵美月は、アパートの古いドアに背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。全身を支配するのは、鉛のような疲労感。今日も、昼は駅前のカフェで立ちっぱなしの八時間、夜は駅裏の居酒屋で酔客相手に五時間。二つのアルバイトを終えて帰宅する頃には、日付はとっくに変わっていた。
「はぁ……」
漏れたため息は、白くもならずに薄暗い玄関に溶けて消える。切り詰めた生活のため、冬でも暖房はつけられない。マフラーを外す気力もなく、美月はしばらくの間、動けずにいた。
亡くなった父が遺したものは、優しい笑顔の記憶と、笑顔とは不釣り合いな多額の借金だけだった。母は美月が幼い頃に病気で亡くしており、頼れる親戚もいない。二十四歳という若さで背負うにはあまりに重いその負債を、彼女はたった一人で返済し続けていた。
いつになったら、この生活は終わるのだろう。普通の女の子のように、友達とカフェでおしゃべりしたり、流行りの服を買ったり、恋をしたり。そんな、当たり前にあるはずの青春を、美月は知らない。
それでも、彼女にはたった一つだけ、心の支えがあった。
重い体を無理やり起こし、四畳半の部屋の隅にある小さな折り畳みテーブルに向かう。そこは、彼女だけの聖域。小さなライトをつけると、色とりどりの押し花や、キラキラと光るパーツの入ったケースが照らし出された。ピンセットを手に取り、UVライトのスイッチを入れる。この、押し花のレジンアクセサリーを作っている時間だけが、美月を現実の苦しさから解放してくれる唯一の魔法だった。
シリコンの型にそっと樹脂を流し込み、ピンセットで小さな忘れな草を配置していく。この花は、昔、母と一緒に散歩した道端に咲いていた花だ。母は「この花の青は、空の色が溶け込んだみたいで綺麗ね」と微笑んでいた。その思い出を、永遠に閉じ込めるように。
カモミール、ミモザ、レースフラワー。道端で見つけた小さな幸せや、母との思い出が、透明な樹脂の中で再び命を吹き込まれる。それは美月にとって、自分自身がまだ、心を失わずにいられる証のようなものだった。
――コン、コン。
突然、アパートのドアを叩く音が響き、美月の肩がびくりと跳ねた。こんな深夜に誰だろう。まさか。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。息を殺してドアを見つめていると、ノックは次第に乱暴なものに変わっていった。
――ドンドン!ドンドン!
「おい、葵!いるのはわかってんだぞ!今月分、どうなってんだ!」
地を這うような低い男の声。借金取りだ。背筋が凍りつき、指先から血の気が引いていく。毎月、なんとか期日までに返済してきたが、今月はどうしても工面が間に合わなかったのだ。
「約束が違うじゃねえか!ドアを開けろ!」
ドアノブがガチャガチャと乱暴に回される。薄いドア一枚を隔てた向こう側にいるであろう男の存在が、恐ろしくてたまらない。もし、このドアを蹴破られたら。もし、この部屋に上がり込まれたら。
「……っ、う……」
恐怖で声も出せず、美月はただ蹲って耳を塞ぐ。やがて、男は悪態をつきながら去っていったようだが、美月の体はしばらく震えが止まらなかった。
返済期限は、明後日。もう、どこからもお金を借りるあてはない。このままでは、このボロアパートさえも追い出され、路頭に迷うことになる。
絶望が、じわじわと心を黒く塗りつぶしていく。作りかけのアクセサリーが、テーブルの上で虚しく光っていた。もう、こんなものを作っている場合じゃない。わかっているのに、涙が溢れて止まらなかった。
翌日。虚ろな頭でカフェのシフトをこなしていると、店の前に、場違いなほどの黒塗りの高級車が停まった。周囲の客も、一体誰が乗っているのかと囁き合っている。
やがて、後部座席から降りてきたのは、上質なスーツを隙なく着こなした、柔和な雰囲気の男性だった。年齢は三〇代前半だろうか。彼は迷うことなく店内に入ってくると、まっすぐに美月のいるカウンターへと向かってきた。
「葵美月さんで、いらっしゃいますね」
穏やかだが、有無を言わせぬ響きのある声だった。
「は、はい……」
なぜ、自分の名前を。不審に思う美月に、男性は一枚の名刺を差し出した。
「私、九条涼様の秘書をしております、橘健司と申します。本日は、九条様の代理で参りました」
名刺には、『株式会社Éclat 秘書室長 橘健司』と書かれている。『Éclat』――それは、テレビCMでもお馴染みの、日本を代表する大手アパレル・コスメ企業だ。そして、九条涼といえば、その巨大企業を若くして率いるカリスマ社長として、経済誌の表紙を飾るほどの有名人だった。
そんな雲の上の人が、なぜ自分に?混乱する美月を前に、橘と名乗る男性は、信じられない言葉を続けた。
「単刀直入に申し上げます。美月さん、どうか、九条様と一年間の契約結婚をしていただけないでしょうか」
「……え?」
契約、結婚?聞き間違えだろうか。あまりに突拍子のない言葉に、美月は間の抜けた声を出すことしかできなかった。
橘は、そんな彼女の反応を予測していたかのように、落ち着いた口調で説明を始める。
「報酬として、あなた様が抱えていらっしゃる借金を、九条様が全額肩代わりいたします。加えて、契約期間中の一年間の生活も、完全に保障させていただきます」
借金の、全額肩代わり。その言葉が、美月の頭の中で何度も反響する。悪質な詐欺なのではないか。追い詰められた人間を狙った、新しい手の込んだ手口かもしれない。
「……あの、そういうのは、間に合ってますので」
疑念を隠さずにそう言うと、橘は困ったように眉を下げた。
「ご無理もありません。ですが、これは決して怪しい話ではないのです。九条社長は現在、周囲から結婚を強く勧められておりまして。特に、祖父である会長が……。そういった面倒事を避けるため、戸籍上の妻という存在が必要なのです」
「妻を、演じる……?」
「はい。あなた様にお願いしたいのは、あくまで形式上の妻です。プライベートは完全に自由。九条様があなた様の生活に干渉することは一切ございません。もちろん、男女の関係を求めることも、決してありません」
橘の目は、どこまでも真摯だった。嘘を言っているようには見えない。それでも、あまりに現実離れした話だ。
しかし、と美月は思う。昨夜の恐怖が蘇る。あの借金取りの怒鳴り声。明後日には、全てを失うという現実。このままでは、本当に自分はどん底に落ちてしまう。目の前にあるのは、蜘蛛の糸だろうか、それとも罠だろうか。
けれど、他に選べる道など、もはや残されていない。
震える唇を、ぎゅっと引き結ぶ。彼女は、か細い、けれど覚悟の滲む声で、目の前の紳士に告げた。
「……お受けします」
その一言が、彼女の人生を根底から変えることになるのを、まだ美月は知らなかった。




