第3話:Eランクの覚悟
決闘の前日になった。
王立魔法学院の中央闘技場は、年次武闘祭や来賓の前での式典に使われる、学院で最も格式の高い施設だ。楕円形の石造りの競技場を、千五百人を収容するすり鉢状の観客席が取り囲んでいる。普段はほとんど使われることがなく、学生たちにとっては遠足の行き先のような場所だった。
だが今日は違う。
決闘裁定の掲示から一日。エルネスト・ラング対レオンハルト・フラムの一戦は、学院中のあらゆる場所で囁かれる話題になっていた。
「見に行くんだろ? 明日の決闘」
「当然。あのフラム侯爵子息の全力が見られるかもしれない。相手はE判定だから三秒で終わるだろうけど」
「どっちかっていうと、ラングがどれだけ粘れるかが見ものじゃない? 炎弾一発で倒されたら面白くないし」
「粘れるわけないだろ。E判定だぞ。防御魔法すらまともに張れないのに」
廊下ですれ違う学生たちの会話が、嫌でも耳に入ってくる。エルネストはそれらを意識の外に追いやり、自分の歩調を変えなかった。
朝の講義を終え、昼休みに図書館に向かう。いつものルーティン。だが今日は古代文献の解読ではなく、明日の決闘のシミュレーションを頭の中で繰り返すためだった。
閲覧席に座り、ノートを開く。昨日までに整理した三枚の手札を再確認する。
一、文法修正版炎弾——威力約五倍。完了相への時制修正。
二、文法修正版火盾——硬度向上。完了相への修正。
三、語順最適化による発動速度の短縮——約〇・五秒の時間的優位。
これらを組み合わせた戦術。開幕で防御を展開し、レオンハルトの初撃を凌ぎ、速度優位を活かして修正版炎弾を当てる。
(問題は魔力の持続性だ)
E判定の魔力総量。これは「器の大きさ」に例えられることが多い。水の入る量が少なければ、いくら蛇口を効率よく使っても、あっという間に空になる。
文法修正は「効率」を上げる。同じ量の魔力でより大きな効果を出す。だが魔力そのものを増やすわけではない。修正版の火盾を維持しつつ、修正版の炎弾を二発撃てば、魔力の残量はほぼゼロになるだろう。
三発目はない。
(二発——いや、実質的に一発で仕留める気持ちでいかなければ。レオンハルトの防御を確実に破る一撃。それを最速で叩き込む)
昼食を取る気分にはなれなかったが、魔力の回復には栄養が必要だ。食堂に行き、いつもの麦粥を機械的に口に運ぶ。
カミルが向かいの席に座ってきた。彼はこういう時に変に気を遣わない。普段通りにパンを齧りながら、普段通りの雰囲気で話す。
「なあ、エルネスト。余計なお世話かもしれないけどさ」
「何だ」
「降参するなら、早い方がいいと思うよ。フラム侯爵子息っていうのは、名門の中でもかなりプライドが高い家系だろ。長引かせると向こうも引けなくなるし、怪我が大きくなる」
カミルの声には、心からの心配が滲んでいた。彼なりの、誠実な助言だった。
「……ああ。考えておく」
エルネストは曖昧に答えた。カミルを安心させたかったが、嘘をつくのも後味が悪い。
実際のところ、降参という選択肢はエルネストの中に存在しなかった。
決闘の勝敗は二の次だ。重要なのは、文法修正の実戦的有効性を検証すること。降参してしまえば、データが得られない。
(……我ながら、研究者としてどうかしている。命の危険がある場面で、データ収集を優先するなんて)
前世でもそうだった。危険な地域の少数民族言語のフィールドワークに、止められても単身で出掛けていった。言語が消えつつある現場を記録しなければ、という使命感が恐怖に勝った。
結局、交通事故で死んだのも、深夜まで研究室に籠もって帰宅したときの疲労が原因だ。
この世界に転生しても、その性分は変わらなかった。むしろ——魔法という「言語で世界を動かす」現象が実在するこの世界では、言語学者としての探究心がさらに加速している。
午後。
エルネストは寮の自室に戻り、ベッドに仰向けになって天井を見つめていた。身体を休めるためだ。明日の決闘に向けて魔力を温存する必要がある。
だが頭は休まらない。
ノートに書き出した戦術を頭の中で何度も反復する。動作のタイミング、呪文の発声速度、足の運び方。エルネストは身体能力の面でも平凡だ。魔法以外に頼れるものはない。
ふと、ノックの音が聞こえた。
寮の部屋を訪ねてくる人間など、カミルくらいしかいない。だがカミルのノックはもっと雑で、叩くというより掌で壁を叩くような音だ。今のノックは、三回、均等な間隔で、控えめに。
エルネストはベッドから起き上がり、扉を開けた。
廊下に立っていたのは、見覚えのある水色の髪の少女だった。
昨日、中庭ですれ違った女子学生。几帳面に制服を着こなし、付箋だらけの水属性の教科書を脇に抱えている。ただし昨日と違うのは、その胸に学院の名札が見えたこと。
|ティア・ノーヴァシルド《・・・・・・・・・・・》。
二年生。水属性。C判定。
エルネストは彼女の名前を知らなかった。名札を読んだだけだ。
「……何か用ですか」
ティアは一瞬言いよどんだ。青い瞳が泳ぎ、それからまっすぐにエルネストを見据えた。
「あの。……一つ、聞いてもいいですか」
声は落ち着いていたが、微かに震えている。緊張しているのだ。
「一昨日の放課後、訓練場の東端にいましたよね。あなたが——あの炎弾を撃ったの?」
エルネストの表情が、ほんの僅かに変わった。
「何のことですか」
「見てたの」
ティアの声が少しだけ強くなった。
「私、あの日、訓練場の近くを通りかかったんです。水属性の自主練の帰りで。そしたら——東端の方からものすごい爆発音がして。光も見えた。白くて、黄色くて、普通の炎弾じゃ絶対にありえない色の」
エルネストは無言でティアを見つめた。
「走って見に行ったら、もう終わった後だった。支柱が燃え尽きて崩れてて、煙があがってて。で、そこから離れていくあなたの後ろ姿が見えたの。E判定の——エルネスト・ラングの」
静かな廊下に、二人の呼吸音だけが残った。
「……確かに、あの日の放課後、東端で自主練をしていました」
エルネストは慎重に言葉を選んだ。
「ですが、E判定の魔力であの支柱を壊すのは不可能だということは、あなたも分かっているはずです」
「不可能なはずなのに、あなたがやった。それが分からないから聞いてるの」
ティアの碧い目に、怯えはなかった。好奇心と——そして切迫するような何かが宿っている。
「あの炎弾は、普通の呪文じゃなかった。色も温度も全然違う。でも残留魔力はE判定分しかない。ということは——魔力を増やしたんじゃなくて、呪文の方を変えた。そういうことですよね」
エルネストは少し驚いた。
レオンハルトが気づいたのは「利用記録の一致」と「エルネストの態度」からの推理だった。だがティアは「魔法そのものの観察」から、核心に最短距離で辿り着いている。残留魔力の総量と威力の不一致から、変数が魔力ではなく呪文にあると特定した。
論理的思考力が高い。
「仮にそうだとして——それがあなたに何か」
ティアは少し黙った。それから、脇に抱えていた教科書を両手で握りしめた。
「私の魔法は暴発するんです」
唐突な告白だった。エルネストは黙って続きを待った。
「判定はC。魔力量はそこそこある。でも、水属性の呪文を唱えるたびに、魔法が制御できなくなる。水弾を撃とうとしたら水が四方八方に飛び散るし、水盾を張ろうとしたら盾が爆発みたいに破裂する。原因は分からない。教官たちにも診てもらったけど、『魔力の流れに癖がある』としか言われなくて。もう二年間、実戦訓練から外されてるんです」
ティアの声は淡々としていた。だが、その淡々さの下に何年分もの悔しさが圧縮されているのを、エルネストは感じ取った。
「だから——もし、あなたが呪文を変えることで魔法の質を変えられるなら。私の呪文も、直せるんじゃないかって。そう思って、来たんです」
エルネストはティアの顔をしばらく見つめた。
正直に言えば、他人の呪文を「修正」するという発想は、まだ持っていなかった。自分の炎弾の文法を直す、という個人的な実験の段階だ。他者の詠唱を分析し、個別にカスタマイズするという作業は、やったことがない。
だが——言語学者として、これほど興味深い「症例」はない。
「魔力の流れに癖がある」と教官は言ったらしい。だがエルネストの仮説に基づけば、原因は魔力ではなく詠唱にある可能性がある。発音の問題、文法構造の問題、あるいはその両方。
「一つだけ聞いていいですか」
エルネストが言った。ティアは頷いた。
「暴発するとき、あなたの詠唱に何か自覚していることはありますか。例えば、特定の音が発音しにくいとか、詠唱の途中で息が足りなくなるとか」
ティアは少し考えてから答えた。
「発音しにくいところは……あります。水属性の呪文の中盤あたりで、舌が回らなくなるというか。『堅氷の壁となりて固まれ』の『けんぴょう』のところ。何度練習してもここだけ噛むんです」
エルネストの脳内で、自動的に音声学的分析が始まった。
「けんぴょう」。母音「e」から鼻音「n」へ移行し、そこから両唇破裂音「p」、さらに拗音「yō」へ。鼻腔を閉じてから唇を破裂させ、さらに口蓋方向に舌を移動させるという、調音器官への負荷が非常に高い音素列。
もし「けんぴょう」という現代語音が古代語の原形から変化したものだとしたら。原典ではもっと発音しやすい音素列だった可能性がある。音韻変化の過程で、発音の難度が上がってしまったのかもしれない。
(面白い。これは……面白い仮説だ)
明日は決闘だ。今は余計なことに手を出している場合ではない。
だが、言語学者の探究心が理性に勝る瞬間は、いつも突然やってくる。
「ノーヴァシルドさん。決闘が終わったら——生きていたら、ですが——あなたの詠唱を詳しく聞かせてもらえますか。何か力になれるかもしれない」
ティアの青い目が大きく開いた。
「……本当に?」
「約束はできません。原因が文法的なものなら手が出せるかもしれませんが、そうでなければどうしようもない。ただ、調べてみる価値はあると思います」
ティアは数秒の間、エルネストの顔を見つめた。嘘を言っていないか確かめるように。それから、固かった表情がほんの少しだけ緩んだ。
「分かりました。……ありがとうございます。あと」
「はい」
「明日の決闘、見に行きます。降参しないでくださいね」
それだけ言って、ティアは踵を返した。水色の髪が夕方の廊下の光を受けて揺れる。角を曲がる直前に、小さく振り返って軽く頭を下げ、そのまま姿を消した。
エルネストは扉を閉めた。部屋に戻り、ベッドの端に腰を下ろす。
(降参しないでくれ、か)
自嘲気味に息を吐いた。カミルには「降参しろ」と言われ、ティアには「降参するな」と言われた。
だが——不思議なことに、今のティアの一言で、明日への覚悟が少しだけ固まった気がした。
文法を直すだけで、魔法が変わる。
この仮説を実証できれば、自分だけでなく、ティアのような「落ちこぼれ」にも道が開ける。
それは、前世の言語学者としての信念とも通じるものだった。
音無言葉は、言語は誰にでも開かれたものであるべきだと信じていた。言語学は一部の学者のための閉じた学問ではなく、すべての人が言葉をよりよく使い、よりよく伝えるための知恵であるはずだと。
この世界の魔法が「言葉」なら——正しい言葉は、誰にでも使える形で開かれるべきだ。
エルネストは立ち上がり、机に向かった。ノートを開き、最後のページに一行書き加える。
『決闘勝利後の課題一:ティア・ノーヴァシルドの詠唱分析。水属性呪文の音声学的・文法的解析。暴発原因の特定と矯正案の設計。必要な基礎データ——水属性基礎呪文の原典テキスト(古代文献コーナーから入手要)、ティアの詠唱の精密な聴取記録、彼女の母語的な発音パターンの特定』
「決闘勝利後の」と書いたことに自分で気づいて、ペンを止めた。
勝つ気でいるのか、自分は。三割の勝率だと冷静に分析していたくせに。
(……分析と覚悟は別物だ。科学者は確率で判断するが、戦場に立つ人間は意志で動く。確率が低くても、やると決めたならやる。それだけの話だ)
ペンをノートの脇に置き、深呼吸した。
部屋の窓から夕焼けが差し込んでいる。二度目の夕暮れ。明日の今頃には、すべてが変わっている。
エルネストは制服を脱ぎ、楽な格好に着替えた。残った時間は身体を休めることに使う。
ベッドに横になると、昨晩と同じように天井の染みが目に入った。やはり古代文字に見える。今度はじっと見つめてみた。
天井の染みは、古代文字と似た形をしているだけで、もちろん文字ではない。水の浸食が偶然に作った形だ。
だが——この世界は、と思った。この世界は、「言葉」で動いている。魔法が言語で発動するということは、世界そのものが一つの巨大な言語的構造体である可能性を示唆している。
天井の染みは文字ではない。だがこの世界のどこかに、世界そのものを定義する「原初の文章」が存在するのだとしたら。
(……考えすぎだ。今は決闘に集中しろ)
エルネストは目を閉じた。
眠りにつく前に、もう一度だけ、明日の戦術を頭の中で通しで組み立て直した。
開幕。防御展開。初撃を凌ぐ。反撃。決着。
シンプルな三段階。余計な枝葉はない。
呪文は準備した。理論は組み上げた。あとは——身体が動くかどうか。
前世では身体を使う機会がほぼなかった。この世界でも同じだ。エルネストの身体は決して屈強ではない。魔法が当たらなかった場合の近接戦闘など、想像するだけで絶望的だ。
(だからこそ、一発で決める。一発で)
不安と緊張と、そしてそれらを上回る好奇心が、暗い部屋の中で渦を巻いていた。
言語学者にとって、未知の言語現象を前にして最も強いのは、恐怖でも勇気でもない。「知りたい」という衝動だ。
文法修正された魔法は、実戦で通用するのか。
言語学の理論は、魔法戦闘という極限状態でも有効なのか。
明日、答えが出る。
エルネストは静かに眠りに落ちた。夢の中でも、古代語の文法構造が回り続けていた。




