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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第8章:言葉狩り

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血の星座

 テオドールが地下から上がってきたのは、夜明けの直前だった。


 目の下に濃い隈。松葉杖の先が石段をすべりかけて、ライナーが慌てて支えた。


「おい、大丈夫か」


「大丈夫です。——終わりました」


 テオドールの手には、メモ帳が三冊。三冊目の最後のページまで、びっしりと碑文が書き写されている。


「侵食語根周辺の碑文、二百一基。すべて完了です。加えて——」


 テオドールは四冊目のメモ帳を取り出した。旅の途中で買い足した最後の一冊。


「比較文法対照表を作りました。四十七方言の動詞活用パターンを、祖語との対応関係で整理してあります。先生がどこで碑石に出会っても、方言を特定し、意味連鎖を設計できるように」


 エルネストはメモ帳を受け取り、ページをめくった。


 碑文のデータだけではなかった。テオドールは一晩かけて、エルネストが半日で復元した祖語の十四動詞を軸に、四十七方言すべての対応表を完成させていた。


「テオドール。これは——」


「先生の祖語復元を見ていて、思いついたんです。先生の頭の中にある知識を、僕が紙に落とせば——先生が倒れても、他の誰かが引き継げます」


 テオドールは真面目な顔で言った。


「先生は自分の頭の中の知識に頼りすぎです。一人の頭に入っている知識は、その人が死んだら消える。ゲルハルト先生が碑銘録を残したように、僕は僕なりの方法で、先生の知識を記録として残します」


 エルネストはテオドールを見つめた。


 この一年生の記録魔は、いつの間にか、学者の矜持を身につけていた。


「ありがとう、テオドール」


「お礼は王都に着いてからで」


 テオドールは松葉杖にすがってベンチに座り込み、そのまま眠りに落ちた。


     * * *


 全員が荷造りを終え、中庭に集まった。


 朝日が城壁の上から差し込み、菩提樹の白い花を照らしている。花の数が減っていた。季節は晩秋に差しかかっている。


 サイラスが城の奥から現れた。いつもの灰色の法衣。だが今日は背中に小さな革の鞄を負っていた。旅に出る格好だ。


「荷物、それだけか」


 レオンハルトが聞いた。


「二十年この城にいたが、必要なものは少ない」


「二十年……」


 ティアが息を呑んだ。二十年間、一人でこの古城に住み、アーカイブの碑文を守り続けていた男の、二十年分の荷物が革の鞄一つ。


「出発の前に、アーカイブの最終処置をする。少し待ってくれ」


 サイラスは地下へ降りていった。


     * * *


 三十分後。


 サイラスが戻ってきた時、顔が青白かった。手が微かに震えている。


「何をした」


 エルネストが聞いた。


「封印詠唱(シーリング・キャスト)。アーカイブの入口を手話詠唱で封じた。レーヴェの遠隔停止権限を無効化する呪文だ」


「そんなことが——」


「創設者が設計した非常手段だ。特級鎮語官だけが知る最終封印」


 サイラスが右手を上げた。手の甲に、赤黒い紋様が浮かんでいた。血管のように枝分かれした痣のような模様が、手首まで広がっている。


「代償は、術者の手話詠唱能力の一時的低下だ。完全回復には二週間かかる」


「二週間——戦えないのか」


「基本的な手話はできる。だが実戦レベルの精密な詠唱は、回復するまで無理だ」


 サイラスの声は淡々としていた。だがその決断の重さを、全員が理解した。二十年間守り続けたアーカイブを封印し、自分の最大の武器を一時的に失ってでも——アーカイブを守り、ここを離れることを選んだ。


「王都に着くまでに回復するか」


「ここから王都まで二日。回復は二週間。間に合わない」


「なら、お前の代わりに戦う」


 レオンハルトが言った。当然のように。


「俺とライナーがいる。剣と拳で足りる」


「俺の拳は健在だ」


 ライナーが右拳を持ち上げた。握力はまだ完全には戻っていないが——笑っていた。


「私の手話も使えます」


 ティアが手を上げた。


「クララも」


 クララが小さく頷いた。


「口笛は元気よ」


 アイラがにやりと笑った。


「記録は僕が」


 テオドールが寝ぼけた目をこすりながら松葉杖を掲げた。いつの間にか起きていたらしい。


 サイラスは七人を見渡した。


 鎮語官として何十年も一人で任務を遂行してきた男の目に、困惑があった。仲間に守られるという経験が、この男にはなかったのだ。


「……変な集団だな」


「共犯者ですから」


 レオンハルトが薄く笑った。


     * * *


 出発の準備が整った時——空から影が落ちた。


 鷹だった。灰色の羽の大きな鷹が、中庭の菩提樹の枝に舞い降りた。脚に革の筒が括りつけられている。


「学院の伝書鷹(でんしょだか)だ」


 レオンハルトが目を細めた。革の筒に押された封蝋を見て、表情が変わった。


「ヴァイス家の紋章。ディルクからだ」


 エルネストが筒を開け、中の手紙を広げた。全員が覗き込んだ。


「読む」


 エルネストの声が硬くなった。



 エルネスト・ラング殿


 血の星座(ブルート・シュテルン)が肉眼で見えるようになった。


 先週、北の錨星(いかりぼし)が三つ暗転した。天文台が認め、教授陣が認めた。もう隠せない。「空が血を流している」という噂が王都の街路に広がっている。


 ゲルハルト先生が王宮に召喚された。封印の現状報告のためだと聞いている。先生は応じた。護衛はない。


 学院は表面上平静だが、鎮語官の動きが活発化している。特級の気配を三度感じた。俺の雷でも追えないほど速い。


 リンデンブルクから王都まで二日だ。急げ。


 東門(ひがしもん)で待つ。


 追伸——ゾフィーが不審な動きをしている。調査中。

 追々伸——S判定に合う文法の件、忘れるな。


 ディルク・ヴァイス



 手紙を読み終えた後、沈黙が落ちた。


「……先生が、王宮に」


 ティアの声が震えていた。ゲルハルト。碑銘録を託してくれた老学院長。護衛なしで王宮に出向いた。鎮語官の総帥レーヴェが王宮にいる可能性を考えれば——危険だ。


「ゲルハルトは賢い。自分の身を無闇に危険に晒す人ではない。だが——」


 エルネストは手紙を折り畳んだ。


「急ぐ必要がある。二日で王都に着く」


「鎮語官と正面から対話するんだな」


 レオンハルトが言った。


「対話だ。戦争ではない」


「相手がそう思うかどうかは別問題だ」


「だからサイラスが必要なんだ」


 エルネストはサイラスを見た。


「鎮語官の内部の人間が、外部の人間と手を組んでいる。サイラス、あなたの存在そのものが対話の証拠になる」


 サイラスは手紙を受け取り、もう一度目を通した。灰色の目が細まった。


「ディルクという弟子は、手紙の書き方まで効率的だな」


「あいつは全部そうだ」


 レオンハルトが苦笑した。


「S判定に合う文法の件、と最後に書くあたりがディルクだ」


 サイラスが手紙を返した。


「出発しよう。もう一つ、お前たちに伝えておくことがある」


「何だ」


「王都には鎮語官の本部がある。地下深く、学院の地下遺跡と接続する形で。レーヴェはそこにいる。そして——」


 サイラスの声が低くなった。


「バベルの封印の核心も、そこにある」


 全員が息を呑んだ。


「僕たちはバベルの封印に直接近づくことになるのか」


「いずれそうなる。だが今はまず、ゲルハルトと合流することが先だ。順番を間違えるな」


 サイラスは門に向かって歩き始めた。


「行こう」


     * * *


 菩提樹の並木道を、八人が歩いていた。


 六日前、七人でこの道を歩いてきた。門の前にサイラスが一人で立っていた。


 今、八人で歩いている。


 サイラスは一度だけ振り返った。菩提樹の城を見た。灰色の石壁。四角い塔。飾り気のない、実用一辺倒の城塞。二十年間の住処。


 目に何かが過ぎった。だがすぐに前を向いた。振り返ったのは、一度だけだった。


「サイラスさん」


 ティアが声をかけた。


「寂しくないですか。二十年も住んだ場所を離れるの」


「寂しいという感情は、鎮語官の訓練で最初に切り捨てるものだ」


「……そうですか」


「だが——」


 サイラスは少し間を置いた。


「菩提樹の花の匂いは、覚えておく」


 ティアは微笑んだ。サイラスは前を向いたまま歩き続けた。


「ところで」


 アイラが後ろから声を上げた。


「八人になったってことは、交代で荷物持ちが楽になるわね」


「お前は荷物が一番軽いだろうが」


 レオンハルトが振り返って言った。


「軽いから速く走れるの。偵察は私の仕事でしょ」


「走らなくていい。二日の道のりだ」


「二日なら走れば一日よ」


「走るな」


 七人と一人——いや、八人の会話が、菩提樹の並木道に響いた。


     * * *


 一日目の夕暮れ。街道沿いの丘の上に野営地を設けた。


 見晴らしのいい場所を、サイラスが選んだ。鎮語官の知識で、この付近に碑石がないことを確認してある。碑石がなければ、バベルの侵食もレーヴェの監視も届かない。


 焚き火を囲んで八人が座った。テオドールは食事の後すぐに眠りに落ちた。昨夜の徹夜が限界だったのだろう。ライナーが大きな手でテオドールの上に毛布をかけた。


「先生」


 ティアが火の向こうからエルネストに話しかけた。


「祖語のことを、もう少し聞かせてください。鎮語官の創設者は祖語の最後の話者だったんですよね」


「サイラスの話では、そうだ」


「祖語を話す人が、祖語を封印した。自分の母語を自分で沈黙させた。——なぜそんなことを」


「バベルから守るためだ」


 サイラスが答えた。火に照らされた灰色の法衣がオレンジに染まっている。


「祖語は全方言の根だ。祖語を正しく発声すれば、全方言の碑文が一斉に反応する。バベルにとって、これほど魅力的な標的はない。祖語一語を反転させれば、世界中の碑文を一撃で裏返せる」


「だから声を封じた」


「そうだ。祖語を声に出さないこと。それが鎮語官の最初の掟だった。手話詠唱は、声を使わずに祖語を操るための代替手段だ」


「でも」


 アイラが口を挟んだ。焚き火の炎に照らされたエメラルドグリーンの瞳が光っている。


「エルネストは昨日、手話で祖語を使ったわ。バベルに感知されなかったの」


「手話は音声を発しない。バベルの耳は音声だ。手話の記号表現(シニフィアン)は視覚——バベルには聞こえない」


 エルネストが答えた。


「だが——」


 エルネストは焚き火を見つめた。


「祖語を復元したということは、いずれ祖語を声に出す場面が来るかもしれない。その時、バベルは確実に反応する。世界中の碑文を巻き込む最大規模の反転が起きる可能性がある」


「それでも必要なのか」


「わからない。だが選択肢として持っておく必要がある。世界規模の意味連鎖を構築するには、祖語が鍵になる」


「ない場合——」


 サイラスが低く言った。


「——お前は祖語を声に出す。バベルが全力で反応する。全世界の碑文が反転の危機に晒される。その時、意味連鎖がバベルの反転を押し返せるかどうかが、すべてを決める」


 焚き火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がった。


 夜空を見上げた全員が——息を呑んだ。


 血の星座(ブルート・シュテルン)が、空を覆っていた。


 リンデンブルクの中庭から見た時は、北の空の一角だった。だが今、赤い亀裂は空の三分の一に広がっていた。北から東にかけて、星座の骨格に沿って亀裂が走り、裂け目から赤い光が漏れている。


 星が暗くなっていた。いくつかの星が、明らかに光を失いつつある。ディルクの手紙にあった「錨星(いかりぼし)の暗転」。封印の要となる星が、消えかけている。


「……きれいだとは言えないわね」


 アイラが呟いた。いつもの軽口だが、声が震えていた。


「あの赤い光は何なの。星が壊れてるの」


「星ではない」


 サイラスが言った。


「あれは古代文字だ。天空に刻まれた封印の碑文。星座そのものがバベルを封じる世界最大の碑文だ。亀裂は碑文の文法構造が崩壊し始めていることを意味する」


「碑文の崩壊——つまりバベルの侵食が、天空にまで及んでいる」


 エルネストが言った。


「アーカイブの碑文だけではなかった。世界の結界そのものが侵食されている」


 沈黙が落ちた。焚き火の音だけが聞こえる。


     * * *


 一人、また一人と眠りに落ちていった。


 レオンハルトが見張りに立った。剣を膝に、焚き火のそばで壁に背をもたれている。


 エルネストはノートを開いた。


 『リンデンブルク出発。第8章最終記録。


  アーカイブの祖語保護:完了。自己維持型意味連鎖が稼働中。

  テオドールの碑文データ:完了。四十七方言の比較文法対照表を含む。

  サイラス合流:確定。手話詠唱能力は一時低下中。

  ディルクからの報告:血の星座の悪化。ゲルハルト先生が王宮に召喚。


  明日の夕方には王都に着く。


  やるべきこと:

  一、ゲルハルト先生との合流。

  二、鎮語官との対話の道を開く。

  三、王都の封印の状態を確認。

  四、ディルクと合流し、S判定に合う文法を設計。

  五、世界規模の意味連鎖の設計に着手。


  時間が足りない。何もかもが足りない。


  だが言葉はある。祖語がある。仲間がいる。

  足りないなら、足りるようにする。

  言語学者にできることは、いつもそうだった。

  不完全な言葉を、正しく繋ぐこと』


 ペンを置いた。


 隣でアイラが空を見上げていた。膝を抱えて、赤い空を眺めている。眠っていなかったらしい。


「エルネスト」


「何だ」


「明日、王都に着くんでしょ」


「ああ」


「あのね——」


 アイラが少し黙った。風が髪を揺らした。


「長老に言われたこと、覚えてる? 翻訳できない言葉を一つ教えてやれ、って」


「覚えている」


「まだ教えてない。何度か聞いてくれたのに、私、まだ言えなかった」


「タイミングがある、と言っていた」


「うん。——まだ、もうちょっとだけ待って。王都で何かが起きた時に。その時がきっと、タイミングだから」


 アイラの声は珍しく真剣だった。いつもの快活さの奥に、何かを大切に守り続けている少女の覚悟が見えた。


「わかった。待つ」


「ありがと」


 アイラは立ち上がり、焚き火に戻った。


 エルネストは一人、空を見上げた。


 赤い亀裂の間に、まだ光っている星がある。消えかけている星と、まだ輝いている星。


 言葉と同じだ、とエルネストは思った。消えかけている言葉がある。まだ生きている言葉がある。


 消えかけている言葉を、繋ぐことで守ること。それが、自分にできる唯一のこと。


 明日、王都だ。


 エルネストはノートを閉じ、焚き火に戻った。仲間たちが赤い空の下で眠りについていた。


 レオンハルトだけが起きていた。剣を膝に、瞳に焚き火の炎を映して。


「寝ないのか」


「もう少しだけ」


「考え事か」


「ああ」


「お前はいつもそうだな」


 レオンハルトが薄く笑った。


「だが今日くらいは寝ろ。明日は長い一日になる」


 エルネストは頷いた。毛布にくるまった。荷物の上に、菩提樹の枝細工の鳥が置いてある。サイラスがくれた、飛び立とうとしている鳥。


 目を閉じた。


 赤い空が、瞼の裏にも残っていた。


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