第2話:決闘裁定
翌朝、エルネストは学院長室への呼び出しを覚悟していた。
だが実際に起きたことは、それよりもずっと厄介だった。
朝の講義が始まる十五分前。教室に入ったエルネストは、入口の掲示板の前に群がる学生たちの異様な熱気を感じ取った。
何事かと近づくと、密集した背中の隙間から、掲示板に貼り出された一枚の羊皮紙が見えた。
決闘裁定の申告書。
この学院には、数百年の歴史を持つ独自の慣行がある。学生間の紛争——名誉毀損、器物損壊、魔法の不正使用などの疑惑が生じた場合、正式な調査委員会を経ずに、当事者同士の「決闘」によって裁定を下す制度だ。
勝者の主張が正しいとされ、敗者は罰則を受ける。その代わり、決闘の結果がどうであれ、それ以上の追及は行われない。
建前上は「双方の合意が必要」とされているが、実際には告発者側が決闘を申し込めば、被告発者に拒否権はない。拒否は疑惑を認めたものとみなされ、即座に退学処分となる。
掲示板の羊皮紙には、こう書かれていた。
『告発者:レオンハルト・フラム(一年・火属性・B判定)
被告発者:エルネスト・ラング(一年・火属性・E判定)
告発事由:訓練場東端における呪文改変および器物損壊の疑い
決闘形式:一対一の魔法戦闘(制限時間十五分、降参または戦闘不能で決着)
日時:明後日、第三鐘(午後三時)
場所:学院中央闘技場』
教室がどよめいた。
「嘘だろ、B判定のフラム侯爵子息がE判定のラングに決闘を?」
「器物損壊って、昨日の訓練場の件か? まさかラングが犯人?」
「ありえないだろ。あの火力が出せるなら、そもそもE判定にはならない」
「フラムが因縁をつけてるだけじゃないのか。あの家は気に入らない相手を決闘で潰すことで有名だぞ」
囁き声が教室を波のように広がっていく。
エルネストは掲示板の前から離れ、いつもの最後列の席に腰を下ろした。鞄からノートを取り出し、開く。手は震えていない——少なくとも、外から見える範囲では。
(決闘裁定。……最悪の展開だ)
鑑定班の調査結果ではなく、レオンハルトが先手を打ってきた。
あの男は昨日の時点で、エルネストが犯人だと確信していたのだろう。利用記録の一致。そしてエルネストの反応——否定しなかったこと。あの食堂でのやり取りは、推理ではなく確認だった。
だが、なぜ決闘という形を選んだのか。鑑定班の結果を待って、正式な告発をすれば確実にエルネストを追い詰められたはずだ。それをせず、わざわざ自分の手で決闘を仕掛けてきた理由は——
(あいつは、戦いたいんだ)
エルネストはペンを止めて、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
レオンハルトが知りたいのは、「誰が支柱を壊したか」ではない。「どうやって壊したか」だ。そしてそれを決闘の場で、自分の目で確認するつもりなのだ。
火属性の天才が、炎弾一発で支柱を炭にした「何か」に興味を持った。
最悪の事態ではあるが——同時に、危険なほど興味深い状況でもあった。
「おはよう、エルネスト。大変なことになってるね」
カミルが隣の席に着きながら、困ったような笑顔で話しかけてきた。
「まあ、フラム侯爵子息が相手じゃ勝ち目ないとは思うけど……でもさ、決闘って降参すればそこで終わるんだろ? 開始三秒で降参すればいい。怪我するよりマシだ」
カミルなりの気遣いだろう。エルネストは軽く頷いた。
「そうだな。それが一番現実的だ」
「だよな。E対Bなんて試合にならないし、学院中が分かってる。恥なんてないさ」
カミルはそう言って、安心したように教科書を広げた。
エルネストもノートに目を戻した。だが、ペンを走らせる内容は、講義の予習ではなかった。
決闘で修正版の炎弾を使えば、「呪文改変」の事実が衆目の下に晒される。
使わなければ、E判定の通常の炎弾しか撃てず、レオンハルトに一方的に叩き潰される。
どちらにしても、今の穏やかな学院生活は終わる。
ならば——
エルネストのペンが、ノートの端にびっしりと文法記号を書き連ね始めた。
* * *
昼休み。図書館の一般閲覧席で、エルネストは古代語の文法ノートを広げていた。
だが、頭の中では別の問題が回転している。
決闘で使える手札を整理する。
現時点でエルネストが確認した「文法修正」は、炎弾の第三節の二文字のみだ。「なりて」を「なりたれ」に変えることで、完了相の時制に修正し、エネルギー収束率を飛躍的に向上させる。
この修正だけで威力は五倍以上になる。だが、五倍の炎弾を一発撃っただけでB判定のレオンハルトを倒せるかどうかは、別の問題だ。
レオンハルトは火属性の天才と呼ばれている。その理由は、単純な火力だけではない。火と風の複合魔法を操る技術、防御魔法の展開速度、そして実戦経験の豊富さ。彼は毎年の学年別模擬戦で上位に入り、三年生相手にすら勝利を収めている。
対するエルネストの戦闘経験は皆無に等しい。前世は大学院の研究室から一歩も出なかったし、この世界でも実技演習ではいつも最下位だった。
(一発の威力で勝てるほど、戦闘は単純じゃない。問題は、僕が「文法修正版の炎弾を撃つ」という一つの技しか持っていないこと。レオンハルトほどの実力者なら、二発目を撃つ前にこちらを無力化できるだろう)
必要なのは、炎弾以外の文法修正だ。防御呪文の修正、あるいは速度に関わる修正。
だが、他の呪文の原典はまだ解読していない。昨日の時点で古代文献から見つけたのは炎弾の原典だけであり、他の呪文の「正しい文法」は分からない。
(二日しかない。原典を探して解読する時間は足りない。なら——今ある知識だけで、何ができるかを考えるしかない)
エルネストは目を閉じ、前世の言語学の知識を総動員した。
グリムの法則。
十九世紀のドイツの言語学者ヤーコプ・グリムが発見した、印欧語族の子音推移に関する法則。ゲルマン語の子音が、他の印欧語族と規則的に対応していることを示した、比較言語学の礎石。
例えば、ラテン語の「p」はゲルマン語の「f」に対応する。ラテン語の「pater(父)」は、英語では「father」になる。音が「規則的に」変化するのだ。ランダムではなく、法則に従って。
この世界の古代語から現代語への変化にも、同様の規則性があるはずだ。
炎弾の「なりて/なりたれ」の変化が「已然形+完了助動詞の脱落」によるものなら——他の呪文でも同じパターンの脱落が起きている可能性がある。
(原典がなくても、変化の法則さえ突き止めれば、現代版の呪文から逆算して「正しかったはず」の原典形を推定できる)
エルネストの目が開いた。ペンが猛烈な勢いでノートを走る。
炎弾の原典と現代版を比較して得られた「第一法則」——已然形+完了助動詞の脱落。
この法則を他の呪文に適用すると、どの部分が劣化しているかが推定できる。
防御魔法「火盾」の現行版詠唱。「炎よ固まれ、我が身を包む壁となりて、あらゆる矢を弾き返さん」。
「となりて」——また「なりて」だ。同じパターン。
「弾き返さん」——推量の終止形。「弾き返そうとする」。
これを法則に従って修正すると——
「となりたれ」——完了相への修正。壁が完全に形成された状態。
「弾き返したり」——完了の助動詞「たり」の終止形。「すでに弾き返している」。
(防御が「これから防ごうとしている」のと「すでに防いだ」のとでは、結界の強度が段違いのはずだ。完了形で宣言することで、防御の成立が時間的に先行する)
エルネストの背筋を、前世と同じ種類の震えが走った。仮説が理論に昇華する瞬間の、あの電撃的な快感。
さらにもう一つ。
呪文全体の語順だ。
この世界の現代語の基本語順はSVO——主語・動詞・目的語の順。呪文もその語順に引きずられている。
だが、古代語の基本語順がVSO——動詞・主語・目的語の順だとしたら。
言語学において、語順は情報処理の速度に直結する。動詞が先頭に来る言語は、聞き手が「何が起きるか」を最初に理解できる。命令文や祈願文では、動詞先頭型が最も「行為の即時実行」に適している。
魔法の詠唱が「世界への命令」だとすれば、動詞を文頭に持ってくるだけで、魔法の発動速度が上がる可能性がある。
(発動速度……そうだ。威力を上げるだけでは足りない。レオンハルト相手に必要なのは速度だ。B判定の魔力で撃ってくる彼の魔法と、E判定の僕の魔法では、詠唱開始から発動までの時間差が致命的になる。だが、語順の最適化で発動を〇・五秒でも速くできれば——)
頭の中で、決闘の戦術が形を成し始めた。
文法修正版の炎弾で攻撃力を確保する。
防御魔法の完了形修正で、レオンハルトの攻撃を一度だけ凌ぐ。
語順の最適化で発動速度を上げ、先手を取る。
持てる手札は三枚。いや、確実に使えるのは炎弾の修正だけで、防御魔法と語順最適化は未検証の理論だ。ぶっつけ本番になる。
(研究者として最悪のやり方だ。検証なき実践。……だが、時間がない)
エルネストはノートを閉じ、立ち上がった。
図書館を出る直前、古代文献コーナーの方角にちらりと視線を向けた。あの埃まみれの書棚の奥には、まだ解読していない魔導書が山ほど眠っている。だが今は、そこに向かう余裕はない。
明後日の決闘に向けて、持っている武器を磨くしかなかった。
* * *
午後の講義が終わった後、エルネストは訓練場の西端に向かった。
東端は立入禁止になっている。鑑定班の調査がまだ続いているのだろう。
西端の訓練場には数人の学生が残って自主練をしていたが、エルネストが来ると露骨に距離を取った。決闘の告知が出てからというもの、周囲の学生たちの反応は二種類に分かれている。「E判定のラングがフラム侯爵子息に潰される可哀想な奴」という同情か、「呪文改変で支柱を壊した危険な奴」という警戒か。どちらにしても、近寄りたくない対象には変わりない。
エルネストは気にしなかった。前世でも研究室に閉じこもりきりで、友人の数は片手で足りた。孤独には慣れている。
標的の前に立ち、まず通常版の炎弾で距離感を確認する。弱々しいオレンジ色の火球が藁人形を少し焦がす、いつもの結果。
次に、防御魔法。
「炎よ固まれ、我が身を包む壁となりたれ、あらゆる矢を弾き返したり。火盾」
エルネストの前方に展開された炎の壁は——
通常版とは明らかに異なっていた。
普段のエルネストの火盾は、赤い炎がゆらゆらと揺れるだけの薄い膜で、石を投げれば簡単に突き抜ける程度の代物だ。
だが今、目の前に展開されている壁は、炎が液体のように流動しつつも、密度が桁違いに高い。色も濃い紅色に変わり、近づくだけで肌を刺すような熱気を放っている。
(……成功だ。防御魔法でも文法修正は有効。やはり、已然形+完了助動詞の脱落パターンは全属性共通だ)
興奮で手が震えそうになるのを堪え、次の検証に移る。
語順の最適化。
通常版の炎弾:「火よ集え、我が手に宿れ、敵を焼き尽くす紅蓮の炎となりたれ、いざ放てり。炎弾」
これを古代語の推定語順(VSO型)に組み替える:「集え火よ、宿れ我が手に、焼き尽くせ敵を、紅蓮の炎となりたれ。放てり。炎弾」
動詞を各節の先頭に移動。命令・行為が最初に宣言される構造。
エルネストは深呼吸し、組み替えた呪文を唱えた。
「集え火よ、宿れ我が手に、焼き尽くせ敵を、紅蓮の炎となりたれ。放てり。炎弾」
発動した。
そして——速かった。
通常版の炎弾で詠唱開始から発動まで約二秒かかるのに対し、語順最適化版は体感で一秒に満たなかった。白黄色の火球が手の平に形成されるまでの時間が、半分以下に短縮されている。
放たれた火球は昨日と同様の破壊力で藁人形を貫き、背後の石壁にぶつかって黒い焦げ跡を残した。
(約一秒。発動時間の短縮は約五十パーセント。……仮説通りだ。動詞先頭型の語順は、魔法の「命令」としての情報処理を高速化する)
エルネストは息を吐いた。手が汗ばんでいる。
これで手札は三枚。攻撃の威力増強、防御の硬度増強、発動速度の短縮。
すべて、文法の修正だけで実現した。追加の魔力は一切消費していない。
だが冷静に考えれば、これでもレオンハルトに勝てる保証はない。
B判定とE判定の魔力差。それは基礎的な体力や持久力に直結する。エルネストの修正版炎弾は一発の威力こそ高いが、E判定の魔力総量では連発できない。おそらく全力の炎弾を三発も撃てば魔力が枯渇する。
レオンハルトは高い魔力を持つ上に、実戦での判断力と技術がある。一発を凌がれた時点で、物量で押し潰される。
(三発以内に決着をつける。それが僕の勝利条件だ)
火属性最底辺の落ちこぼれが、火属性の天才に挑む。
冷静に考えれば、狂気の沙汰だ。
だが——
(これは実験だ。僕の仮説の、実戦条件下での総合検証。文法修正という変数だけで、魔力の絶対値の差をどこまで覆せるのか。言語学者として、この問いに答えたい)
エルネストは訓練場を後にした。
寮への帰り道、中庭を通りかかったとき、見知らぬ女子学生と目が合った。
銀色がかった水色の髪を肩の下まで伸ばし、学院の制服を几帳面に着こなした少女。澄んだ青い瞳がエルネストを一瞬だけ捉え、すぐに視線を逸らした。
彼女の手には水属性の教科書が抱えられていて、その表紙に付箋がびっしり貼られているのが見えた。真面目な学生なのだろう。
すれ違っただけだ。名前も知らない。
だがエルネストが通り過ぎた後、少女は立ち止まって振り返っていた。
エルネスト・ラング。E判定の落ちこぼれ。明後日、B判定のレオンハルトと決闘する男。
学院中が結果を知っている。誰もが一方的な蹂躙になると確信している。
だが、|ティア・ノーヴァシルド《・・・・・・・・・・・》は——水属性C判定の彼女は、昨日の放課後、訓練場の東端の近くを通りかかっていた。
あの白黄色の爆発を、彼女は見ていた。
E判定の魔力しか持たないはずの男の手から放たれた、ありえない威力の炎弾を。
ティアは唇を僅かに噛み、水色の髪を揺らして歩き出した。
その手の中で、教科書を握る力が少しだけ強くなった。
* * *
夜。寮の自室。
エルネストは机に向かい、決闘に向けた最終的な戦術をノートに書き出していた。
第一段階——開幕と同時に語順最適化版の防御魔法を展開。レオンハルトの先制攻撃を凌ぐ。
第二段階——防御を維持したまま、文法修正版の炎弾を一発放つ。威力によるインパクトでレオンハルトの動揺を誘う。
第三段階——二発目の炎弾で決着をつける。
計画としては単純だ。だが、E判定の魔力では三段階すべてをこなせるかどうかは五分五分。防御魔法の維持時間も未検証であり、レオンハルトがどれほど速い連続攻撃を仕掛けてくるかも分からない。
(変数が多すぎる。実験として見れば、制御できない要素が多すぎて論文にならない。……だが、戦闘は論文じゃない)
ペンを置き、窓の外を見た。
星空は昨夜と変わらず澄んでいる。あの揺らぎは——やはり目の錯覚だったのだろうか。
ふと、前世の恩師の言葉が蘇った。別の一言。
「言語学者の仕事は、世界を解読することだ。だがな、解読した答えを世界に示すには、勇気がいる。答えが世界の常識を壊すものであるなら、なおさらだ」
(先生。僕は明後日、答えを示します。勇気があるかどうかは分かりませんが、愚かなことをしようとしているのは確かです)
エルネストはランプを消し、ベッドに潜り込んだ。
明後日。学院中央闘技場。
E判定の言語学者が、B判定の天才魔導士に挑む。
誰もエルネストの勝利を信じていなかった。
エルネスト自身でさえ、勝率は三割程度だと冷静に見積もっている。
だが、彼の中の言語学者は、前世から一貫してこう考えていた。
結果は不明でも、仮説は検証しなければならない。
それが科学であり、言語学者というものだ。
暗い部屋の中で、エルネストの口元に微かな笑みが浮かんだ。
恐怖と興奮が同居する、研究者特有の——あの笑顔だった。




