風詠みの長老
村は静寂を取り戻していた。
『沈黙の楔』が砕け散ったことで、張り詰めていた重い空気が抜け、本来の清涼な森の風が隠れ谷へと吹き込んでくる。
谷の奥から、弓や槍を手にした風詠み族の生き残り数十名が、警戒を解ききれないまま慎重に近づいてきた。
彼らの視線の先には、先ほどまで絶望的な群れを形成していた魔獣をたった数名で一掃し、あまつさえ呪わしい黒石の呪具を素手で粉砕した灰色の瞳の青年——エルネストがいる。
「アイラ……その王国人たちは?」
顔に風紋のタトゥーを刻んだ青い髪の青年が、アイラを庇うように前に出た。彼の手には、まだ緊張の残る弓が握られている。
「大丈夫よ、ガロ。彼らは王国軍の手先じゃないわ」
アイラはガロを制し、誇らしげにエルネストたちを指した。
「灰ノ原の街を救ってくれた人たちよ。しかも、私たちの言葉で『灰の守り手』を呼んでくれたの。さっきの呪具を壊してくれたのも彼よ」
「私たちの言葉で……?」
ガロをはじめとする部族の者たちが、信じられないというようにざわめき合った。
彼らにとって、王国の魔導士は常に自分たちを「野蛮な原始人」と見なし、言葉を弾圧し、土地を奪う略奪者でしかなかったのだから。
「助けてもらって感謝する。……だが、王国の魔導士が何の目的でこの谷へ来た?」
警戒するガロの問いに、エルネストは一歩進み出て、深々と頭を下げた。
「僕は魔導士じゃない。ただの『言語学者』だ」
「げんご……がくしゃ?」
「君たちの扱う高度に圧縮された抱合語に、純粋な学術的興味がある。……そして何より、僕らの街を恒久的に魔獣から防衛するためには、君たちの部族に伝わる『古い言語』に隠された文法の切れ端が必要なんだ」
エルネストのまっすぐな瞳と、これまでの尊大な魔導士たちとは全く異なる真摯な態度は、風詠み族の警戒心を少しずつ解いていった。
「……通しなさい、ガロ」
ふと、谷の奥にあるひときわ大きなテントから、嗄れた、しかし風のように澄んだ声が響いた。
アイラがその声を聞き、すぐに姿勢を正す。
「おばば様!」
テントから姿を現したのは、深いシワの刻まれた小柄な老婆だった。
両目は白濁しており光を失っているようだが、彼女の一歩一歩には迷いがなく、まるで周囲の風の流れからすべてを視認しているかのような不思議な威厳があった。
「長老……でも、王国の人間を村の中枢に入れるなど……」
「よいと言っておる。あの若者の声には、王国の者が持つ『特権思想の強張り』がない。ただ底抜けに、世界への好奇心が満ちているだけじゃ」
長老と呼ばれた老婆は、ゆっくりとエルネストの前まで歩み寄り、見えないその眼で彼を真っ直ぐに「見た」。
「よく来てくれた、王国のはぐれ鳥よ。そしてアイラを、この谷を救ってくれたことに心から礼を言おう。……わしは風詠み族の長、ニナじゃ」
「お会いできて光栄です、ニナ殿。僕はエルネスト・ラング」
エルネストは名乗り、背後の弟子たちとレオンハルトを手で示した。
「こちらが僕の生徒たちと、……護衛のレオンハルトだ」
「おう、よろしくな」とレオンハルトが軽く手を上げ、ティアたちが律儀にお辞儀をした。
「さて、エルネストよ。谷の入り口にあったあの不吉な『楔』……あれを作った者たちの目的はわかるか?」
長老ニナが、核心を突くように問うた。
「ええ。鎮語官——世界のシステムのバグを隠蔽する王国の暗部です。彼らは、自然なマナの流れを阻害して魔法を機能不全にしつつ、周囲の魔獣を極限まで狂暴化させて君たちを削り取ろうとした」
「いかにも」
長老ニナは深く頷いた。
「千年前の『バベル』の呪いにより、世界の言葉は歪み続けておる。言葉が歪めば、そこに依存する理も歪む。……森の魔獣がこの数年で急激に狂暴化したのも、その『歪み』が臨界点に達しようとしている証拠じゃ」
長老は杖をつきながら、空を見上げた。
「王国の者たちは愚かよ。歪みを直すのではなく、歪みに気づく者を殺し、楔を打って無理やり隠蔽しようとしている。だが、そんなことをすればいずれ圧力で世界が弾ける」
「同感です。だからこそ、僕はバベルの文法崩壊を『逆算』し、正しい文法を取り戻す方法を探している。……そのために、あなたの知恵をお借りしたい」
エルネストは、ゲルハルト学院長から受け取った『封印碑銘録』を開き、長老に見えないことは承知の上でそのページを示した。
「灰ノ原の街を守る結界碑石。それを完全に修復し、『永久完了相』という恒久的な防衛システムを構築したい。しかし今の僕には、この土地における『ある特定の古代動詞の活用形』がどうしても一つ足りないんです。……アイラから、あなただけが『一番古い口笛(歌)』を知っていると聞きました」
長老ニナの表情が、微かに動いた。
「『春の風を留める歌』……か。それを部族以外の者に渡せと言うのじゃな」
「ご無礼な願いなのは承知しています。しかし、その歌の文法構造が分からなければ、魔獣の大群を永遠に防ぐ手立てが——」
「よいぞ」
「……えっ?」
あまりにもあっさりとした即答に、エルネストは思わず間の抜けた声を漏らした。
「よいと言ったのじゃ」
長老はくっくと笑った。
「お主は、王国の言葉(標準語)で私たちの文字を塗り替えるのではなく、私たちの言葉(方言)を理解し、その価値を重んじてそのまま残そうと努力してくれたのじゃろう? なら、それは奪われるのではない。『継承』じゃ。何も惜しむことはない」
「ありがとうございます……!」
エルネストの瞳が、言語に対する純粋な歓喜で子供のように輝いた。
「ただし」
長老ニナは、厳しい声に切り替えた。
「あの『歌』は、お前たち王国の人間が使うような、部品を並べるだけの無機質な言葉ではない。風そのもの、命の鼓動そのものを一つの音に圧縮した、極めて複雑な『抱合の極致』じゃ」
ニナは自分の胸を叩いた。
「文字にはできん。楽譜にもできん。お主のその『耳』と『魂』で、一つのメロディの中から何千もの文法規則を同時に感じ取らねば、絶対に読み解けはせん代物じゃぞ」
「望むところです」
エルネストの口角が、不敵に吊り上がった。未解明の言語で、しかも難解であればあるほど、彼の言語学者としての血は沸き立つ。
「よかろう。だが、教えてやるのは明日以降じゃ。いまはお主らも疲れておるじゃろう」
長老は振り返り、谷の民たちに向かって声を張り上げた。
「皆の者! 今宵は、私たちの恩人たちをもてなす宴じゃ! バベルの狂気も、忌まわしき鎮語官の影も、今日だけは忘れよ。出し惜しみはいらん、最高の木の実と肉を用意せいっ!」
長老の号令に、谷のあちこちから安堵と歓びの歓声が上がった。
闘いの緊張が完全に解け、若い民たちが次々と宴の準備に向けて走り出していく。アイラも嬉しそうにティアとクララの手を引き、谷の奥へと案内し始めた。
「先生、なんだか歓迎のお祭りになっちゃいましたね」
「ああ……たまには、こういう『フィールドワーク』も悪くない」
隠れ谷を覆っていた暗雲が完全に晴れ、木々の隙間から夕闇の空が姿を現し始めていた。
次なる「言葉」との決戦を前にして、エルネストたちは束の間の平和な宴の夜を迎えることとなった。




