第6話:間違った呪文
深夜の訓練場は、静かだった。
月明かりが石畳を白く照らし、等間隔に立つ丸太の支柱が影を落としている。昼間は学生たちの詠唱と爆発音で騒がしいこの場所も、夜更けには誰もいない。
エルネストは訓練場の中央に立ち、深呼吸をした。
冷たい夜気が肺に沁みる。心臓が速い。手は乾いている。
四ヶ月の解読作業。七年間の古代文字収集。前世二十六年間の言語学の蓄積。そのすべてが、今夜、一つの呪文に収束する。
(検証する。修正版の炎弾を、実際に詠唱する。理論は正しいか。仮説は検証可能か。……今夜、分かる)
身体の中を流れる魔力を意識する。薄い。少ない。E判定の底辺の魔力量。蝋燭一本分の灯油のような、頼りない量だ。
だが——今夜は「灯油の質」を変えるのではない。「燃やし方」を変えるのだ。
まず、比較のために通常版を撃つ。
エルネストは訓練場の端に立つ太い丸太の支柱に向かって、右手を伸ばした。
「火よ集え、我が手に宿れ、敵を焼き尽くす紅蓮の炎となりて、いざ放たん。炎弾」
右手の先に、淡いオレンジ色の光が集まった。直径十五センチほどの、弱々しい火球。実技の授業で何十回と撃ってきた、E判定なりの炎弾だ。
パシュン、と間の抜けた音を立てて、火球が支柱に当たった。表面がわずかに焦げたが、それだけだ。
これが「壊れた呪文」の出力。E判定の魔力量と、千年分の文法劣化を掛け合わせた、惨めな結果。
エルネストは右手を下ろし、息を整えた。
(次は——修正版だ)
脳内で修正版の詠唱を組み立てる。昨夜から何十回も反復した文法構造を、もう一度丁寧に確認する。
語順修正。動詞先頭型VSO。
完了相復元。「なりたれ」「放てり」。
もう一つ。辺境で四年間研究した音韻対応から推定した、古代語の本来の発声パターン。母音の長さ、子音の破裂の強さ、アクセントの位置。現代語の発音習慣ではなく、古代語の音韻体系に近づけた発声を意識する。
エルネストは再び右手を伸ばした。同じ支柱に向かって。
深呼吸。
口を開いた。
「集え火よ、宿れ我が手に、焼き尽くせ敵を、紅蓮の炎となりたれ。放てり。炎弾」
世界が、変わった。
右手の先に形成された火球は——オレンジ色ではなかった。
白に近い黄色。中心部が白く発光し、外縁部に黄金色の光輪が浮かび上がる。直径は通常版と同じ十五センチほどだが、密度が全く違う。空気が歪むほどの熱量が、球体の中に圧縮されている。
手の平に感じる熱。焼けるような感覚。だが同時に——制御されている、という確かな手応えがあった。
火球が解放された。
轟音。
白黄色の光弾が空気を引き裂き、支柱に命中した。
衝撃波がエルネストの髪を乱し、夜風を吹き飛ばした。訓練場の石畳がビリビリと振動する。
煙が立ち上る。焦げた匂い。木材が燃える音。
煙が晴れた後、エルネストは支柱を見た。
丸太の表面は焦げた——のではなかった。
炭化していた。
命中点を中心に、半径三十センチほどの範囲が完全に炭と化している。表面だけでなく、芯まで。指で触れれば崩れそうな、灰色の炭の塊。
丸太は魔法耐性のある特殊な木材で作られている。A判定の火球でも表面を焦がす程度のはずだ。それが——芯まで炭になっている。
E判定の魔力で。
エルネストの手が震えた。今度は緊張ではなく、興奮で。
(五倍? いや——十倍か。もっとかもしれない。たった二箇所の文法修正で、これだけの差が出る。仮説は、正しかった)
膝が笑っている。魔力を使い果たした虚脱感が全身を襲う。E判定の魔力で、通常の数倍以上の出力を出した反動だ。
エルネストは支柱の前にしゃがみ込み、炭化した表面に手を当てた。
温かい。いや、熱い。だがもう火は燃えていない。熱は残留しているだけだ。
(千年間、誰も気づかなかった。この世界の千年の魔法の歴史の中で、呪文の文法を分析した人間が一人もいなかった。言語学がないから。呪文を「言語」として見る視点がなかったから)
エルネストはゆっくりと立ち上がった。
炭化した支柱を見つめながら、自分がやったことの意味を噛み締める。
これは言語学者の実験だ。仮説を立て、検証し、結果を得た。学術的には正しいプロセスを踏んでいる。
だが同時に——この結果は、この世界の「常識」を根底から覆すものだ。
魔力量と魔法威力は比例する。それがこの世界の大前提だ。E判定の魔導士はE判定の魔法しか使えない。それが「真理」として千年間信じられてきた。
だがその「真理」は不完全だった。正確には——
「魔力量と魔法威力は比例する。ただし、呪文の文法が正しい場合に限る」
現代の呪文は文法が劣化しているため、魔力の利用効率が著しく低い。魔力量に対して実際に魔法として変換される割合が小さい。つまり、F1カーのエンジンにガソリンを入れているのに、穴の開いたタンクから大半が漏れている状態だ。
文法を修正すれば、穴を塞げる。魔力がE判定でも、漏れがなくなれば——E判定なりの全力が出せる。
そしてその全力は、漏れだらけの通常の魔法に比べれば、遙かに大きい。
(これを公にしたら、大騒ぎになる)
エルネストは炭化した支柱を見て、冷静に状況を分析した。
この支柱を放置すれば、明日の朝、訓練場を使う学生や教官が気づく。E判定の学生にできる破壊ではない以上、何かが起きたことは明白であり、調査が入るだろう。
だが——隠す方法がない。支柱を元に戻す魔法は使えないし、証拠を隠滅する余力もない。
(隠す必要もない。研究者は実験結果を公開するものだ。……ただし、公開のタイミングと方法は選ばなければならない)
今夜のこの実験は、エルネスト個人の「仮説の検証」だった。だが結果として生じた物的証拠——炭化した支柱——は、明日以降、学院を巻き込む騒動の種になる。
エルネストは訓練場を出る前に、もう一度支柱を振り返った。
月光に照らされた訓練場に、一本だけ黒く変色した支柱が立っている。
千年間の誤訳の証拠。
言語学者にしか見えなかった、世界のバグの痕跡。
* * *
寮に戻ったエルネストは、ベッドに倒れ込んだ。
魔力の枯渇で全身が重い。だが頭だけは冴えていた。
ノートを引き寄せ、今夜の実験結果を記録する。
『実験日時:入学四ヶ月目、深夜。場所:訓練場。被験者:自分。魔力判定E。使用呪文:修正版炎弾(文法修正二箇所+語順最適化+音韻調整)。結果:通常版の五倍以上の推定威力。支柱の芯まで炭化。仮説「呪文の文法修正により魔法効率が飛躍的に向上する」は支持された。課題:再現性の検証、他属性への適用可能性の確認、効率向上の定量的評価が必要』
ペンを置いた。
天井を見上げる。
(ここからどうするか)
選択肢は二つある。
一つ目。この発見を自分の中に留め、密かに研究を続ける。安全だが、遅い。
二つ目。発見を公にし、学院の——いや、世界の魔法観そのものに挑戦する。危険だが、速い。
前世の自分なら、迷わず二つ目を選んだだろう。
音無言葉は異端の研究者だった。学会の定説に正面から反論し、論文で戦い、敵を作り、孤立した。最後は暗い研究室で一人きりの日々を過ごし、交通事故で死んだ。
誰にも認められなかった研究者。正しいことを言っているのに、伝え方を知らなかった人間。
(同じ轍は踏まない。……踏みたくない。だが、この発見を埋もれさせるわけにもいかない)
エルネストはノートの最後のページに、一行だけ書いた。
『ならば、直してやろうじゃないか——この世界の、千年分の間違いを』
前世で叶わなかった夢を、この世界で叶える。
言語学者は、言葉を正しくする。
この世界では、言葉を正しくすることが——魔法を正しくすることだ。
エルネストはランプを消し、目を閉じた。
窓の外の星空が、また揺らいだ——が、もう眠りに落ちた彼にはそれが見えなかった。
序章・終。




