滲む星空
深夜。
旧練兵場の地下空間での特別授業を終えた後、エルネストとティアは夜風を浴びるため、学院の屋上へと足を運んでいた。
見上げれば、冬の澄んだ空に満天の星が広がっている。
この世界の星座は、ただの天体の並びではない。古代の魔導士たちが天の法則を記述した『大結界のルーン』であると伝説には語られている。
「ライナーたち、ずいぶん上達しましたね」
冷たい風に銀糸の髪を揺らしながら、ティアがふと言った。
その横顔には、かつて魔力暴発に怯えていた頃の暗さはなく、後輩たちを見守る姉のような穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「ああ。それぞれが自分の欠陥と向き合い、独自の文法を確立しつつある。もう誰にも、彼らを落ちこぼれだなんて言わせないさ」
手すりに寄りかかりながら、エルネストは深く息を吐いた。
前世では誰にも理解されずに終わった理論が、今、この異世界で三人の生徒の才能を開花させている。教師としての、あるいは一人の言語学者としての充足感が確かにそこにあった。
「……でも、先生。このままで本当に大丈夫でしょうか」
ふと、ティアの声のトーンが落ちた。
「古代語の禁止令が出てから、管理部の動きが明らかに異常です。まるで、正しい古代語を使う者そのものを恐れているような……」
「ゲルハルト学院長が言っていた『恐ろしい結果』、か」
エルネストも空を見上げたまま、目を細めた。
軍事的なバランスが崩れるだけなら、管理部がここまで徹底的に弾圧する必要はない。その裏には、もっと根本的な恐怖——世界のシステムの根幹に関わる『厄ネタ』が隠されているはずだ。
考えているうちに、エルネストの視線が一つの星座に固定された。
言語学の知識が深まるにつれ、星の並びが表す『古代文字』の意味が、彼には少しずつ読めるようになっていた。
だが今夜の星空は、どこかおかしい。
「……滲んでいる」
「え?」
「星の並びが形作る古代文字の輪郭が、微かに震えて……滲んでいるんだ。文法構造が、まるで何か巨大な力に削り取られているみたいに」
エルネストが空から視線を落とすと、偶然にも、手がかかっている石の欄干の柱が目に入った。
そこには、学院の創設時に彫られたであろう『守護碑文』が彫られている。風雨による建物の劣化を防ぐための、ごく基礎的な結界の呪文だ。
その文字の輪郭もまた、空の星と同じようにひび割れ、擦り切れていた。
「自然な風化じゃない。呪文を構成する『完了相』の動詞部分だけが、ピンポイントで意味を破壊しかけている。このままじゃ文法が崩壊して、結界が完全に役目を果たさなくなるぞ」
ひび割れた碑文を見た瞬間、エルネストの中の『言語学者』としての本能が抗いがたく刺激された。
誤字脱字を放置できないような、ある種の職業病だ。
「先生、駄目です。管理部の目があるのに……」
「ほんの少し、一文字だけ添削するだけだ。それに……試してみたい仮説がある」
止めるティアをよそに、エルネストは剥き出しの石材にそっと掌を当て、古代語の正しい発音をピンポイントで紡いだ。
「守りたれ」
指先から注がれたのは、最低ランクであるE判定の、蝋燭の火にも満たない微弱な魔力だ。
しかし、その魔力には『完璧な文法構造』という絶対の設計図が含まれていた。
直後。
カチリ、と。見えない歯車が噛み合うような確かな手応えがあった。
石材の表面に走っていたひび割れが、エルネストの掌の周囲だけ、まるで時間を巻き戻したかのようにスゥッと塞がっていく。輪郭を失いかけていた古代のルーンが、千年前の鮮やかな彫りを完全に取り戻したのだ。
「……え」
ティアが息を呑んだ。
それは数十秒だけ淡く輝き、エルネストが手を離すと、魔力供給が途絶えて再び元のひび割れた状態へと戻っていった。
「やはりな」
エルネストは自らの手を見つめ、静かに確信を口にした。
「『正しい文法』には、魔力量の多寡(判定ランク)など関係ない。たとえ僕のようなE判定の微弱な魔力でも、完璧な文法を与えれば、千年前の巨大なシステムのバグを一瞬だけ上書きできる。……魔力はただのスイッチに過ぎないんだ」
「……感心してる場合かよ。そんなイカれた光景、他人には絶対に見せるな」
突如、背後の影から呆れたような低い声が響いた。
振り返ると、屋上への階段の陰に、腕を組んだレオンハルトが立っていた。
「レオンハルト……いつからそこに?」
「お前たちが屋上へ向かうのを見てな。妙な真似をしないか見張りにきたら、案の定だ」
レオンハルトは厄介なものを見る目で、エルネストと碑文を交互に睨んだ。
「お前、今のがどれだけ異常なことか分かってるのか。いくら基礎的な結界とはいえ、学院の防衛システムにお前個人の微弱な魔力で干渉したんだぞ。……さっきの下手な揺り戻しで、管理部の魔力計が跳ね上がってなきゃいいがな」
「ごめん。つい、誤字が気になって」
「あのな……」
心底呆れたように額を押さえたレオンハルトだったが、やがてその瞳に剣呑な光を宿し、声を潜めた。
「エルネスト。この間の連走騒ぎの時、管理部の連中に混じって、やけに無機質で気配のない奴らがいたのを覚えているか?」
「ああ。感情がないような、気味の悪い連中だった」
「……子供の頃、親父の書斎にあるフラム家の禁書で読んだことがある。王宮の影に潜み、歴史から抹消された場所から現れる『暗殺者』。千年前の災厄を呼び戻しかねない『正しい言葉』を語る者を、世界から容赦なく削り取るための処刑人だ」
夜風が急に冷たさを増したような気がして、ティアが身震いした。
「処刑人……」
「表向きの記録には存在しない。だが、貴族の裏社会では恐怖と共に囁かれている。奴らの名前は『鎮語官』。……もし奴らが、お前の存在と言語学の異常性に気づけば、どうなるか分かるな?」
レオンハルトの警告は、これまでの単なるライバルとしての牽制ではなく、確かな『共犯者』としての忠告だった。
「鎮語官。世界のバグを隠蔽する暗部というわけか」
エルネストは欄干の崩れかけた碑文に再び視線を落とした。
「忠告は感謝するよ、レオンハルト。気をつける」
「……ちっ、全然分かってねえ顔だ。まあいい、死ぬ時は勝手に死ね」
レオンハルトは小さく鼻を鳴らすと、踵を返して階段の暗がりへと消えていった。
屋上に再び、静寂が戻る。
「先生……」
不安そうに見つめてくるティアに、エルネストは優しく微笑みかけた。
「安心しろ。僕の言語学は、ただの暗殺者に消されるほどヤワな理論じゃない」
夜空を見上げる。
星々の描く文法は、依然として微かな滲みを見せていた。
この世界のシステムそのものが抱えている『バグ』。そして、それに蓋をして言葉を狩り続ける鎮語官の存在。
真理の片鱗に触れてしまった言語学者は、その恐ろしさに震えるよりも先に、奥底から湧き上がる知的好奇心を抑えきれないでいた。




