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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
序章:壊れた呪文

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第4話:三男坊の選択

 十六歳の春。ラング家に危機が訪れた。


 発端は領地の水路だった。


 冬の大雪で水路の堰が崩壊し、農地の一部が水浸しになった。修繕費用は銀貨三百枚。ラング家の年間収入の三分の一に相当する額だ。


 父ヘルマンは書斎に閉じこもり、帳簿と格闘していた。母マルタが市場での交渉に走り回り、長男アルベルトが領民と共に応急修繕に汗を流した。次男フリッツは王都の遠縁に援助を求める手紙を書いた。


 エルネストには、何もできることがなかった。


 三男坊。家計の知識もなく、土木作業の体力もなく、貴族のコネもない。


 水路の修繕がどうにか完了した後、家族会議が開かれた。ラング家の書斎に五人が揃うのは珍しいことだった。


「金が足りない」


 父ヘルマンが端的に言った。帳簿を閉じ、真っ直ぐに三人の息子を見た。


「修繕費で蓄えの大半が消えた。来年以降、三人分の学費と生活費を出す余裕はない。一人ずつ、自分の道を決める時が来た」


 長男アルベルトは頷いた。彼は既に決めていた。


「俺は軍に入る。東部守備隊が兵を募集している。今年中に入隊すれば、来月から給金が出る」


 次男フリッツも即答した。


「僕は王都の商会に奉公に出る。母さんの実家の伝手がある。二年修業すれば一人前になれる」


 二人の兄は、それぞれの道を迷いなく選んだ。実直な長男は軍。社交的な次男は商売。適材適所であり、父も母も安堵の表情を見せた。


 そして——三男の番が来た。


「エルネスト。お前はどうする」


 父の視線が向けられた。母も、兄たちも、エルネストの答えを待っている。


 十六歳のエルネストは、一拍だけ間を置いた。


 前世の記憶が、この瞬間のために蓄積されてきたのだと思った。辺境で七年間集めた古代文字の断片。現代語の分析。呪文の文法的違和感。すべてが一つの結論を指し示している。


「王立魔法学院に入学したい」


 書斎に沈黙が落ちた。


 最初に反応したのは父だった。


「……学院だと?」


「はい。王都の王立魔法学院です」


「お前の魔力はE判定だ。学院は魔導士を育成する機関だぞ。E判定では実技試験に受かるはずがないとは言わんが——入ったところで何ができる」


「呪文を研究したいのです。学院の図書館には古代語の文献が収蔵されていると聞きました。あの文献にアクセスするためには、学院の学生になるのが最も確実な方法です」


 父は困惑した表情を浮かべた。母は静かにエルネストを見つめていた。


「呪文を研究する? それが何の役に立つ」


「……今すぐ役に立つかどうかは分かりません。ただ——」


 エルネストは言葉を選んだ。前世の記憶のことは言えない。古代語の文法修正が魔法効率を変える可能性があることも、仮説に過ぎない以上は説明が難しい。


「この世界の呪文には、改善の余地があるかもしれないと考えています。その可能性を検証するために、学院の資料が必要なのです」


「改善の余地。呪文にか。……千年間変わっていない呪文に、十六歳の小僧が改善の余地を見つけるというのか」


 父の声には怒りではなく、純粋な困惑があった。この息子が何を考えているのか、理解できないという顔だ。


「学費はどうする。うちには出す金はないぞ」


「特待生制度があります。筆記試験で上位の成績を収めれば、学費が免除される枠があると聞きました」


 母マルタが口を開いた。王都出身の彼女は、学院について父より多少の知識を持っていた。


「特待生の枠は確かにあるわ。でも——毎年数百人が受験して、特待生は五人だけよ。貴族の子弟も受けるし、各地の魔法塾で鍛えた秀才たちも受ける。辺境の家庭教師の教育だけで太刀打ちできるの?」


「筆記試験の科目は言語、歴史、魔法理論の三科目です。実技は別枠なので、筆記だけなら魔力は関係ありません」


 エルネストは静かに言った。


「言語と歴史にかけては——負ける気がしません」


 傲慢に聞こえたかもしれない。だがエルネストの声には、虚勢ではなく確信があった。前世で二十六年間言語学を研究した人間が、この世界の言語と歴史の筆記試験に落ちるはずがない。


 家族は少しの間、黙っていた。


 やがて、次男のフリッツが肩をすくめて言った。


「まあ、エルネストが本気で言ってるなら、やらせてやれば。受験はタダだろ。落ちたらその時考えればいい」


 長男アルベルトも静かに頷いた。「弟の選択に口を出す立場じゃない。好きにさせろ」


 父ヘルマンは腕を組み、しばらく考え込んでいたが——最終的に、重い口を開いた。


「学費が免除されるなら、止める理由はない。だが生活費だけは自分でなんとかしろ。うちからは出せん」


 母マルタが付け加えた。


「王都には私の実家がある。最初の数ヶ月は居候させてもらえるよう、手紙を書いておくわ」


 エルネストは頭を下げた。


「ありがとうございます」


 書斎を出る時、母が小声で呼び止めた。


「エルネスト」

「何ですか、母さん」

「あんたが小さい頃から、普通の子じゃないのは分かっていたわ。頭がいいとか早熟だとか、そういう話じゃなくて——何か、別のところを見ている子だなって、ずっと思ってた」


 マルタの目は優しかったが、どこか寂しげだった。


「母親として正直に言うと、怖かったの。この子は何を見ているんだろう、私たちには見えないものを見ているんじゃないかって。でも——あんたが本気でやりたいことがあるなら、止めるつもりはない。行ってらっしゃい」


 エルネストは母の目を見つめた。


 前世の記憶が脳裏をよぎった。前の世界の母は——早くに亡くなった。研究に没頭する息子を見届けることなく。


「……必ず成果を持って帰ります」


 それだけ言うのが精一杯だった。


     * * *


 受験準備は、半年間に及んだ。


 十六歳の秋から翌年の春にかけて、エルネストはゲオルク先生の最後の指導を受けながら、独学で試験範囲を網羅した。


 言語の科目は問題なかった。この世界の現代語の文法を体系的に記述できるのは、おそらくエルネストだけだ。筆記試験の問題がどのレベルであれ、解けないものはないだろう。


 歴史も同様だ。古代超帝国から現代王国に至る千年の歴史は、エルネストにとって「言語変化の背景」として詳細に研究済みの分野だった。


 問題は魔法理論だった。


 家庭教師の教育では基礎の基礎しか学んでいない。灯火の呪文すら発動できないエルネストにとって、魔法は理論上の知識でしかなかった。


 だが筆記試験である以上、求められるのは「理解」であって「実践」ではない。


 父の書斎にあった『呪文概論』を何度も読み返し、魔法理論の基礎を暗記でなく理解として定着させた。魔力の流れ、属性の分類、詠唱と発動の関係。


(理論は分かる。だが「なぜそうなるのか」の説明が、この世界の教科書にはない。答えは古代語の中にあるはずだ。……学院に入れば、確かめられる)


 十八歳の春。受験の日が来た。


 エルネストは生まれて初めて王都を訪れた。


 辺境の静けさとは全く異なる、圧倒的な喧騒。石畳の大通りを馬車が行き交い、魔法灯が街路を照らし、様々な身なりの人間が足早に行き過ぎる。


 そして——耳に飛び込んでくる、無数の「言葉」。


 王都標準語。南部方言。北部訛り。異国の言語。商人の専門用語。貴族の丁寧語。

 エルネストの脳が、自動的に全ての音声を分析し始める。止められない。止めたくもない。


 受験会場は学院の大講堂だった。三百人近い受験生が席に着いている。


 エルネストは周囲を見回した。受験生の大半は、良い服を着た貴族の子弟か、魔法塾の制服を着た秀才たちだ。辺境の下級貴族の三男が着ている擦り切れたジャケットは、明らかに場違いだった。


 試験が始まった。


 言語の科目。現代語の文法問題。読解問題。作文問題。


 エルネストのペンは止まらなかった。この世界の言語学者が出題した問題を、前世の言語学者が解く。圧倒的な知識の非対称性。三百人の受験生が一時間かけて解く問題を、エルネストは三十分で解き終えた。


 空いた時間で、答案の余白に「この問題の出題意図についての考察」を書き加えた。出題者が想定していなかった視点からの分析だ。余計なことだったかもしれないが、言語学者の性分として黙っていられなかった。


 歴史の科目も同様に終わった。


 魔法理論の科目は、さすがに時間ぎりぎりまでかかった。実技の経験がない分、理論の応用問題で手間取る。だが基礎がしっかりしていたおかげで、致命的な失点はなかったはずだ。


 試験が終わり、受験会場を出た時、隣に座っていた受験生が声をかけてきた。


「言語の試験、すごかったね。三十分で全部解いてたでしょ。俺なんか最後の作文、半分しか書けなかったよ」


 人好きのする笑顔の青年だった。こざっぱりした商家の子供という風情で、エルネストと同い年くらいに見える。


「カミル・ホーフェン。王都の第三魔法塾出身。よろしく」


 カミル。後にエルネストの数少ない友人となる青年との、最初の出会いだった。


「エルネスト・ラング。東部辺境の……何も出身じゃないな。独学だ」


「独学で筆記? すごいな。魔力判定は?」


「E」


 カミルが目を丸くした。


「E!? それで魔法学院を?」


「図書館を使いたくてな」


「図書館……?」


 カミルは首を傾げたが、深追いはしなかった。不思議な奴だな、という顔でエルネストの肩を叩き、「受かるといいな、お互い」と言って去っていった。


     * * *


 合格発表は、二週間後だった。


 結果は——特待生合格。


 筆記試験の総合成績は、三百二十七人中、第一位。


 言語の科目は歴代最高得点。歴史は二位。魔法理論は百三十位。総合で一位。言語と歴史の圧倒的な得点が、魔法理論の不足を補って余りあった。


 だが合格通知と共に、もう一つの書類が届いた。


 魔力判定書。


 『エルネスト・ラング。魔力判定:E。全判定段階中、最低ランク。基礎戦闘魔法の運用は困難と判断される。特記事項:筆記試験の成績を考慮し、研究特待生として入学を許可する。ただし実技成績が学院基準を下回る場合、在籍期間は最長二年に制限される』


 E判定。この世界の魔力の底辺。


 エルネストはその判定書を読んで、小さく笑った。


 分かっていた。十二歳の時に灯火すら灯せなかったのだから、E判定は想定の範囲内だ。


 だが——二年の時間制限は厳しい。二年以内に、古代語の解読を進め、呪文の文法修正の仮説を検証し、成果を出さなければ退学になる。


(二年あれば十分だ。……いや、十分かどうかは分からない。だが、やるしかない)


 エルネストは合格通知を丁寧に折り畳み、旅支度を始めた。


 辺境を離れる日が来た。

 母が握らせてくれた路銀の銀貨。父が無言で差し出した古い防寒外套。兄たちからの簡素な手紙。


 馬車が動き出す。窓の外に、見慣れたラング家の屋敷が小さくなっていく。


 エルネストは前を向いた。


 王都に向かう。

 魔法学院に入る。

 古代語を解読する。

 呪文の文法を修正する。


 前世の言語学者が、この世界の魔法と向き合う。

 物語は、ここから始まる。


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