第3話:読めない文字
十三歳の夏。
ラング家の三兄弟は、領都の魔力判定所で正式な魔力判定を受けた。
王国の法令により、十三歳になった子供は全員、最寄りの判定所で魔力の等級を測定される。判定結果はS、A、B、C、D、Eの六段階。この等級が、その人間の魔導士としての「格」を一生決定づける。
判定は簡素なものだった。水晶球に手を触れ、流れ込んだ魔力の量と質を測定器が読み取る。所要時間は一人あたり数秒だ。
長男アルベルトはC判定。「軍の下級魔導兵として十分な水準」と判定官に告げられ、父ヘルマンは安堵の表情を見せた。
次男フリッツはD判定。「一般市民としては平均的」と、特に喜びも落胆もない結果だった。
そして、三男エルネスト。
水晶球に手を置いた。数秒が経ち——判定官が、わずかに眉を顰めた。
「もう一度、しっかりと手を置いて」
言われた通りにした。水晶球の内部で、ほんの微かに光が瞬いた。蛍の尾よりも頼りない、消え入りそうな光。
「……E判定」
判定官は事務的な声で告げた。
「魔力判定E。測定可能レベルの最低値です。魔導関連の職業への適性は認められません」
静寂が落ちた。
父ヘルマンの顔がこわばった。母マルタは口元を押さえた。兄たちは気まずそうに目を逸らした。
E判定。
実質的に「魔法が使えない」ことを国家が公式に認定するのと同義だった。
この世界において、魔力の量は生まれた瞬間に決まる。努力で上げることはできず、成長しても等級が変わることはほぼない。E判定とは、魔導士としての人生が十三歳で閉ざされる宣告に等しかった。
帰りの馬車の中で、家族の誰も口を開かなかった。
エルネストだけが、窓の外を流れる辺境の景色を淡々と眺めていた。
(E判定。予想通りだ)
動揺はなかった。自分の中に流れる魔力がほとんどないことは、幼い頃から分かっていた。灯火の呪文すら灯せなかった時点で覚悟はできていた。
(魔力の絶対量は変えられない。それは確定した事実だ。だが——呪文は「言語」で書かれている。言語なら分析できる。そして、分析の結果として効率を上げられるなら、少ない魔力でも十分に機能する可能性はある)
E判定が意味するのは「持てる魔力が少ない」ということだけだ。使い方の最適化についてはまだ誰も何も分かっていない。そしてそれは、言語学者にしか踏み込めない領域だ。
エルネストは静かにノートを開いた。判定結果の用紙を表紙の裏に挟む。忘れないように。
この紙が、いつか意味を変える日が来ると信じて。
* * *
その年の秋、エルネストは初めて「古代文字」の前に立った。
きっかけは、父ヘルマンに連れられた隣村への用事だった。領境の水路の修繕について隣の領主と協議するという、地味な領地経営の仕事だ。エルネストは鞄持ちとして同行した。
隣村には、小さな教会があった。
石造りの質素な建物で、鐘楼の先端が欠けている。辺境ではよくある、手入れの行き届かない地方教会だ。だが——その外壁に、エルネストの目は釘付けになった。
教会の正面入口の上部、アーチ状の石組みの表面に、文字が刻まれていた。
この世界の現代文字ではない。形状も配列も全く異なる、見たことのない文字体系。風化して半分以上が読み取れなくなっているが、残った部分のいくつかは鮮明に浮かび上がっていた。
直線と曲線の組み合わせ。文字同士を繋ぐ連結子のような装飾。一つ一つの文字が独立しているのではなく、語単位で繋がっている形式——前世の知識で言えば、アラビア文字やデーヴァナーガリー文字に近い筆記原理だ。
「父さん。あの文字は何ですか」
「ん? ああ、あれか。古代文字だな。千年以上前に使われていた文字だと聞いている。今は読める者はほとんどいない」
「ほとんどいない? まったくではなく?」
「王都の学者が何人か解読を試みているらしいが、完全には読めていないそうだ。わしには関係のない話だがな」
父は興味なさそうに教会の中へ入って行った。エルネストは外に残り、碑文の前にしゃがみ込んだ。
ノートを取り出し、見える文字を一つ一つ丁寧に書き写す。風化で判読不能な部分は空白にし、読み取れた部分だけを正確に模写していく。
八文字。辛うじて読み取れたのは八文字だけだった。
だがエルネストにとって、八文字は十分だった。
(この文字体系の基本原理を推定するには、最低限のサンプルがある)
前世の記憶が鮮明に蘇った。古代文字の解読手法。未知の文字体系に直面した場合、まず文字の種類を特定する——表語文字か、音節文字か、音素文字か。
碑文の書き写しを持ち帰ったエルネストは、その晩から解読作業に没頭した。
だが、すぐに壁にぶつかった。
サンプルが少なすぎるのだ。
八文字だけでは文字体系の全体像を推定するのは不可能に近い。最低でも数十文字、できれば数百文字のサンプルが必要だ。しかも文脈が分かる文章単位のものがなければ、文法構造の分析に入れない。
(辺境にはサンプルが少ない。古代文字の碑文や遺構は、王都やその周辺に集中しているはずだ。ここにいる限り、解読は進まない)
十三歳の少年は、自分の限界を冷静に認識した。
言語学者にとって最も辛いのは、分析すべき対象が手の届かない場所にあることだ。前世でも、少数民族の消滅しかけた言語を記録するために世界中を飛び回りたかった。だが大学院生の旅費には限界があり、論文の締め切りに追われ、結局は限られたデータで闘うしかなかった。
この世界でも同じだ。下級貴族の三男坊の行動半径は狭い。王都は遠い。
だが——何もしないわけにはいかなかった。
* * *
翌月から、エルネストは辺境で手に入るすべての古代文字のサンプルを収集し始めた。
教会の碑文。古い街道の道標。朽ちかけた石橋の欄干に刻まれた銘文。農家の地下貯蔵庫の壁に残された落書き。
どれも断片的で、風化が進んでおり、読み取れる文字はわずかだった。だが一つずつ書き写し、ノートに蓄積していく。
半年で収集できた文字は、重複を除いて四十三種類。
「四十三か……。音素文字であれば文字種が足りるかもしれない。前世の世界の音素文字は、だいたい二十から四十文字程度の体系が多かった。四十三種類なら、一文字が一つの音に対応する可能性がある」
だがこの推定には問題があった。文字の種類が四十三あるからといって、それが四十三の異なる音素に対応するとは限らない。同じ音を異なる文字で表記する「書記的異体字」が含まれている可能性もあるし、二文字の組み合わせで一つの音を表す「二重音字」が存在する可能性もある。
エルネストは集めた文字の形態的特徴を分析し、グループ分けを試みた。直線型と曲線型。左向きの装飾と右向きの装飾。連結子の有無。
形態的に類似した文字をまとめると、約三十のグループに分かれた。この世界の現代語の音素数は二十四——母音六と子音十八——であり、古代語の音素数がそれより多かったとすれば、三十前後の音素に三十前後の文字が対応するのは整合的だ。
(仮説:古代文字は音素文字であり、一文字が一つの音素に対応する。古代語の音素数は約三十。現代語の二十四と比較して、六つの音素が消失している可能性がある)
この仮説を検証するには、古代文字と現代文字の対応関係を特定する必要がある。つまり、古代文字で書かれた単語と、現代語の同じ意味の単語を対照させて、文字と音の対応表を作る。
だがそのためには、古代文字で書かれた「意味が分かる」テキストが必要だ。碑文や道標の断片だけでは意味が推測できない。
行き詰まった。
* * *
十三歳の冬。
ゲオルク先生の歴史の授業で、転機が訪れた。
「古代超帝国。千年以上前にこの大陸を統一していた巨大な帝国だ。彼らは高度な文明と、現代を遥かに凌駕する魔法技術を持っていたと伝えられている。帝国が使っていた言語が『古代語』あるいは『古代神聖語』と呼ばれるものだ」
「先生。古代超帝国は、なぜ滅んだんですか」
「原因には諸説あるが、最も有力なのは『大災厄』説だ。帝国末期に発生した何らかの大規模な災害によって文明が崩壊し、帝国は瓦解した。その際に古代語の知識の大半が失われ、生き残った人々は現代語の原型となる簡略化された言語を使い始めた」
「つまり——現代語は、古代語から派生した言語だということですか」
「そういうことだ。ただ、両者の関係は非常に遠い。千年以上の断絶があるからな。専門家でも古代語を完全に解読することはできていないと聞く」
千年の断絶。言語変化の蓄積。音韻の変質。文法の簡略化。語彙の消失。
前世の比較言語学の知見では、千年の隔たりは言語を根本的に変えてしまう。英語のたかだか千年前の姿である「古英語」ですら、現代英語話者にはほぼ読めない。
だが——「完全に解読できない」というのは、正確ではないはずだ。前世の世界では、エジプトのヒエログリフもメソポタミアの楔形文字も、適切な方法論を用いれば解読できた。ロゼッタ・ストーンのような「二言語対照資料」があれば、未知の言語の扉は開く。
(この世界にも、古代語と現代語の対照資料があるはずだ。宗教文書。外交文書。法令。……どこかに)
ゲオルクの授業をきっかけに、エルネストは歴史文献を漁り始めた。ラング家の書斎にある歴史書は少なかったが、隣村の教会の書庫を司祭に頼んで閲覧させてもらった。
そこで見つけたのは、古い祈祷書だった。
教会の典礼語で書かれた祈祷文の横に、現代語の「翻訳」が添えられている。二言語対照テキスト。ロゼッタ・ストーンの小さな版だ。
祈祷書の典礼語は、厳密には古代語そのものではない。古代語から派生した「教会用の古い言語」であり、原形からはかなり変化している可能性がある。だが、現代語よりは古代語に近い。
エルネストは祈祷書の対照テキストを一語一語書き写し、典礼語と現代語の語彙対応表を作成した。
さらに、典礼語の文字と古代文字の形態を比較した。教会の典礼語は現代文字で表記されているが、古い祈祷書の中には古代文字で書かれた一節がわずかに残っていた。
そこから、古代文字の音価を特定する作業が始まった。
一ヶ月の作業で、三十文字中十二文字の音価を推定できた。
(あと十八文字。……サンプルが足りない。やはり、王都に行かなければ)
十三歳のエルネストは、自分の研究が「辺境」という物理的制約に阻まれていることを痛感していた。
手元にあるのは、断片的な碑文のスケッチと、古い祈祷書から作った不完全な対応表。そして前世の言語学の知識体系。
道具は揃っている。だが素材が足りない。
* * *
十四歳の春。
エルネストは父の書斎で、一冊の古い本を見つけた。
『呪文概論——王国認定基礎魔法入門書』
魔法を学ぶ子供向けの教科書で、五つの基礎属性——火、水、風、雷、土——の初歩的な呪文が掲載されている。ラング家が長男アルベルトのために昔買ったものらしく、背表紙には「アルベルト」と幼い字で名前が書かれていた。
エルネストはページをめくり、呪文の一覧を食い入るように読んだ。
火属性基礎呪文「炎弾」——
「火よ集え、我が手に宿れ、敵を焼き尽くす紅蓮の炎となりて、いざ放たん。炎弾」
水属性基礎呪文「水弾」——
「水よ集え、我が手に宿れ、敵を貫く堅氷の槍となりて、いざ放たん。水弾」
風属性基礎呪文「風刃」——
「風よ集え、我が手に宿れ、敵を切り裂く旋風の刃となりて、いざ放たん。風刃」
エルネストの目が止まった。
(待て。この呪文——全部、同じ文法構造をしている)
五つの属性の基礎呪文は、すべて同一のテンプレートで構成されていた。
「〇〇よ集え、我が手に宿れ、敵を△△する□□となりて、いざ放たん。〔魔法名〕」
属性名と効果の記述だけが変わり、文法の骨格は完全に同じだ。
言語学者の目に、二つの点が引っかかった。
一つ目、「なりて」。連用形に接続助詞「て」がついた形。これは変化や動作の途中、あるいは並列を示す接続であり、文の結びとしては「完結していない」感触がある。
二つ目、「放たん」。推量の助動詞で文を結んでいる。「放とうと思う」「放つつもりだ」程度の曖昧な意志表明にしかなっていない。
だがこの時点では、エルネストにはこの「違和感」の正体を特定する術がなかった。
なぜなら、これらの呪文は「現代語でルビが振られた古代語の音写」だからだ。古代語の原典でどう表記されていたかが分からない限り、「なりて」が正しいのか間違いなのかを判断できない。
(原典が必要だ。古代語で書かれた呪文のオリジナルテキスト。それを現代の呪文と比較しなければ、この違和感が文法的な誤りなのか、ただの感覚的な不満なのか、区別がつかない)
エルネストはノートに書いた。
『課題:基礎呪文五種の古代語原典を入手すること。現代版との文法比較により、千年間の言語変化の影響を評価する。仮説:現代版呪文は古代語の原典から口伝の過程で文法が劣化しており、この劣化が魔法効率に負の影響を与えている可能性がある』
仮説は立った。だが検証の手段が、こちら側にない。
原典は王都にある。おそらく、王立魔法学院か、王宮の大図書館に。
十四歳のエルネストは、ノートを閉じて窓の外を見た。
辺境の空は広い。遠くに連なる山並みの向こうに、王都がある。
(行かなければ。あそこに)
だが、下級貴族の三男坊が王都に行く手段は限られている。軍に入るか、聖職に就くか、あるいは——
「魔法学院に入学する」
エルネストは声に出して言った。
魔力E判定の少年が、王国最高峰の魔法教育機関を目指す。常識的に考えれば、馬鹿げた目標だ。
だが、エルネストが学院に行きたいのは魔法を使うためではない。呪文を研究するためだ。学院の図書館には古代語文献が収蔵されているはずだ。それにアクセスするためには、学院の学生になるのが最も確実な方法だ。
十四歳のエルネストは、夕暮れの空に向かって、静かに拳を握った。
前世の自分は大学院に入学するために受験勉強をした。この世界の自分は魔法学院に入学するために——何をすればいいのか。
その答えを見つけるまでに、さらに二年の歳月が必要だった。




