前夜
武闘祭まで残り一週間。
最後の模擬戦を終えたティアとエルネストは、旧練習場の端に座っていた。夕暮れの空が茜色に染まり、氷壁の残骸が夕日を受けて溶けていく。
レオンハルトは先に帰った。「本番前に手の内を見せすぎるのも良くない。あとは自分たちで仕上げろ」と言い残して。
「三ヶ月前とは、別人ですね。私」
ティアが自分の手を見つめながら言った。
「三ヶ月前は水弾一発撃つだけで暴発していた。今は複文構造詠唱で攻防同時発動ができる。省エネ詠唱で三連戦もこなせる。……信じられません」
「君の資質がもともと高かったんだ。暴発で蓋をされていただけで、C判定の魔力は嘘じゃない。修正版呪文で蓋が取れて、本来の力が出ているだけだ」
「エルネストの修正がなかったら、一生あの蓋は取れなかったかもしれません」
「僕の前世の知識がなかったら——」
エルネストは言葉を切った。「前世」という単語が口をついて出かけた。
ティアが静かにエルネストを見つめた。
「前世?」
沈黙。
エルネストは少し迷い、そして決めた。
この三ヶ月、ティアとは毎日のように顔を合わせ、共に研究し、共に訓練してきた。レオンハルトにも学院長にも言わなかった秘密だが——ティアには、伝えるべきかもしれない。
共犯者に、嘘は似合わない。
「……ティア。一つだけ、打ち明けたいことがある。僕の——」
「転生者ですか」
エルネストの瞳が見開かれた。
「……何?」
「転生者。別の世界から、この世界に生まれ変わってきた人。昔の御伽噺にあるんです。外の世界の魂が、この世界に迷い込んでくるっていう話」
「御伽噺……?」
「子供の頃、母に読んでもらった絵本です。でも——エルネストを見ていて、ずっと思っていました。あなたの知識は、この世界のものじゃない。誰にも習っていないのに、言語の分析方法を知っている。音声学も、文法論も、この世界には存在しない学問を体系的に理解している」
ティアの碧い目は、驚くほど穏やかだった。
「最初は天才なのかなって思いました。でも違う。天才は無から有を生む人。エルネストは無から有を生んでいるんじゃなくて、別のところで学んだことをここに持ってきている。——だから、転生者かなって」
エルネストはしばらく言葉が出なかった。
「……いつから気づいていた」
「暴発の原因を特定した時です。あの時、エルネストは『軟口蓋摩擦音と硬口蓋破擦音の代用』って言いましたよね。その瞬間に確信しました。この世界に、あんな用語は存在しません」
エルネストは苦笑した。
確かに、あの時は無防備だった。音声学の専門用語を使ってしまったのは、前世の研究者としての反射だった。
「怖くないのか」
「何がですか?」
「僕が——別の世界から来た人間だということが。普通の人間じゃない、ということが」
ティアは首を傾げた。
「普通の人間って、何ですか? この世界に魔法がある時点で、普通の定義なんて曖昧ですよ。エルネストが別の世界から来たとしても、あなたが言語を愛していることは本物でしょう。私の暴発を直してくれたことも本物。修正版の呪文が効くことも本物。——本物は全部ここにあるのに、出自を怖がる理由がありますか」
エルネストは空を見上げた。
茜色の空が、紫に変わりつつある。
前世では、誰にも理解されなかった。研究の正しさを認めてもらえず、孤立し、一人で死んだ。
この世界では——一人ではない。
「ありがとう、ティア」
「感謝は武闘祭が終わってからにしてください。まだ実戦で複文構造詠唱を使ったことがないんですから。本番で失敗するかもしれない」
「しない。君なら、しない」
「根拠は?」
「三ヶ月間の訓練が、根拠だ。百八十時間のデータが全部そう言っている」
ティアは笑った。言語学者らしい答えだ。
* * *
武闘祭の前夜。
エルネストは寮の自室で、最終確認を行っていた。
ノートに書き込まれた戦術のリスト。想定される対戦相手の分析。ティアへの詠唱指示の一覧。魔力消費の概算。
すべて準備は整った。あとは実戦あるのみ。
ドアをノックする音。
「開いているぞ」
カミルだった。
「よう、エルネスト。明日の武闘祭、出るんだって? 聞いたぞ。E判定の図書館の虫が、C判定の暴発少女と組んで参加するって」
「その通り。笑いに来たか」
「笑いに来たんじゃないよ。応援に来たんだ」
カミルは笑顔でエルネストの肩を叩いた。
「入学試験の時からお前は変わった奴だと思ってた。言語の試験を三十分で解いて、余った時間で出題者に論文を書くような奴は初めて見たよ。……あの時から、お前はここに来る運命だったんだと思う」
「運命なんてものは——」
「信じないだろ、言語学者は。分かってる。じゃあ別の言い方をしよう。お前を応援する奴が、少なくとも一人いる。忘れんなよ」
カミルは手を振って去っていった。
エルネストは一人になった部屋で、窓の外を見た。
夜空。星。
今夜は——揺らいでいない。静かな、いつも通りの星空だ。
嵐の前の静けさなのか。それとも——
(考えすぎだ。今は、目の前のことに集中しろ)
エルネストはノートを閉じ、ランプを消した。
明日、武闘祭が始まる。
E判定の言語学者とC判定の水属性魔導士が、学院に挑む。
千年間壊れていた言葉を武器に、何百人もの健全な魔導士たちに立ち向かう。
勝てるかどうかは分からない。だが——
「正しい言葉は、強い」
暗闇の中で、エルネストは呟いた。
それだけは、確信していた。




