省魔力詠唱
武闘祭まで残り三週間。
複文構造詠唱の訓練が軌道に乗り始めた頃、新しい問題が浮上した。
エルネストの身体だった。
E判定の魔力しか持たないエルネストは、武闘祭の団体戦で直接戦闘に参加しない。すべての攻撃と防御はティアが担う。エルネストの役割は戦術指揮——リアルタイムでティアに呪文の修正指示を出す軍師的な立ち位置だ。
だが、問題がある。団体戦のルールでは、「チームメンバー全員が闘技場内に存在しなければならない」。つまり、エルネストも闘技場に立たなければならない。後方に隠れることはできるが、相手の攻撃が飛んでくる可能性は常にある。
「ティアが僕を守りながら戦う、という形になる。つまりティアの負担は二倍だ」
「大丈夫です。氷壁が私たち二人を覆うように展開すればいい。複文構造で攻撃しながら、防御の氷壁も維持できます」
「だが、氷壁を維持し続けるのは魔力の消耗が大きい。十分間の試合で、攻撃と防御を同時に——」
「足りますか?」
「……計算上は、ぎりぎりだ。無駄遣いはできない」
エルネストはノートに魔力消費の概算を書き出した。
ティアのC判定の魔力量。修正版呪文の効率。複文構造詠唱の追加負荷。一試合あたりの攻撃回数と防御回数の見積もり。
「予選三試合を勝ち抜くだけで、かなりの消耗だ。本戦に入ったら——」
「魔力回復のために、試合の間にできるだけ休息を取る必要がありますね」
「そうだ。そして、もう一つの対策として——呪文の省魔力化を進める」
「省魔力化?」
「修正版の呪文は効率が高いが、詠唱そのものの長さが魔力消費に影響する。詠唱を短縮すれば、消費する魔力も少なくなる」
省エネ詠唱。前世のミニマリズムにも通じる概念だ。
言語学では「経済性の原則」がある。言語は時間とともに省エネルギーの方向に変化する。音が脱落し、語が短縮され、文法が簡略化される。この原則を逆手に取り、意図的に呪文を短縮する。
「例えば、複文構造詠唱の接続部『在りつつたれ』を、さらに短い形にできないか。古代語の短縮形が存在するなら——」
「短縮形って、現代語でいう『〜ちゃ』とか『〜とく』みたいなやつですか?」
「そういうことだ。古代語にも口語的な短縮形があったはずだ。儀式的な長い形式と、日常的な短い形式の二層構造は、どの言語にも見られる」
エルネストは図書館の古代文献中の非公式な書き付け——碑文ではなく、日常の手紙や商取引の記録——を探した。公式な碑文は正式な古代語で書かれているが、私的な文書には口語形が含まれている可能性がある。
二日間の調査で、数点の非公式文書が見つかった。その中に——
「あった。『在りつつたれ』の短縮形。『在つたり』。二音節短い」
「在つたり。……言いやすいですね」
「これを複文構造に組み込めば、詠唱時間が約〇・三秒短縮される。一試合に五回使えば、一・五秒の節約。C判定の魔力消費率で計算すると——約七パーセントの省エネだ」
「七パーセント……小さく聞こえますけど」
「予選三試合で合計すれば二十パーセント以上の差になる。本戦に残す魔力量が変わる」
ティアは真剣な顔で頷いた。
「分かりました。『在つたり』で練習し直します」
残り三週間。細部の最適化が進む。
* * *
訓練と並行して、エルネストはもう一つの問題に取り組んでいた。
学院長が告げた「脅威」の正体。
古代語の劣化が安全装置だったという言葉が、ずっと頭の中に引っかかっていた。
図書館の古代文献の劣化が加速していることを、エルネストは改めて確認していた。古代文字のインクが薄くなり、輪郭がぼやけていく現象。それが自分たちの修正版呪文の使用と時期的に重なっている。
(正しい古代語を使うことで、何かが反応している。文献の劣化はその兆候かもしれない。学院長が五十年間向き合ってきた問題——地下から伝わってきたあの振動——この学院の深くに、何があるのか)
仮説を立てることはできる。だが検証する手段が、今のエルネストにはない。
考えても仕方がない。武闘祭は目前に迫っている。脅威の正体の解明は、今はできない。
今できるのは、ティアを武闘祭で勝たせること。そして、文法修正の技術を学院に認めさせること。
学院長が恐れるものの正体は——その後だ。
エルネストは自分に言い聞かせ、ノートを閉じた。
窓の外、夜空の星が——また一つ、揺らいだ。
今度も——見間違いだろうか。
天の一角で、星が文字のような形に滲んだ——気がした。
ほんの一瞬の錯覚。だが、前回よりも長かった。
エルネストは窓辺に立ち、夜空を見つめ続けた。
(何かが起きている。古代語の文献が劣化し、星空が揺らぐ。学院長が言う脅威と、これは同じものなのか? 星の配列は——世界の文法の一部なのか?)
言語学者の脳は、睡眠中でさえ分析を止めなかった。




