第2話:言葉の子
八歳になった夏、エルネストの中で何かが変わった。
夢は、以前よりも鮮明になっていた。
以前は断片的だった映像が、物語のように繋がり始めた。大学の研究室。教授たちとの議論。黒板に書かれた文法規則の樹形図。カフェテリアで交わされた、見知らぬ言語の文法について議論する「自分」の声。
そして、名前。
音無言葉。
夢の中の「自分」は、その名で呼ばれていた。「音無くん」「言葉さん」「オトナシ先生」——場面によって呼び方は変わるが、同一人物を指している。
目覚めた後も、以前のように記憶がぼやけなくなっていた。細部は薄れるが、骨格は残る。
自分はかつて、別の世界で言語学を研究していた人間だった。
八歳のエルネストは、その事実を冷静に受け止めた。恐怖はなかった。むしろ——安堵に近い感情があった。自分が「普通の子供」と違う理由が、ようやく分かったからだ。
言語が好きなのは性格ではなく、前世からの蓄積だった。音の違いに敏感なのは才能ではなく、訓練の成果だった。三歳で文字を独学で読めたのは早熟ではなく、別の文字体系を既に学んだ経験があったからだ。
だが同時に、新しい疑問が生まれた。
なぜ自分は「ここ」にいるのか。前の世界で何が起きて、この世界に来たのか。
夢の中には、その答えがまだ見つからなかった。
* * *
ラング家の屋敷の周辺には小さな市場があり、週に一度、近隣の農村から商人や農民が集まってくる。
八歳のエルネストは、市場に行くのが好きだった。買い物のためではない。「言葉」を聞くためだ。
市場には様々な出自の人間が集まる。東部方言の農民。南部から来た行商人。王都出身の巡回役人。稀に、国境を越えてきた異国の商人。
エルネストは市場の端に座り、一日中、彼らの会話を聞いていた。
東部方言では「水」を「ヴァッサ」と言うが、南部方言では「ヴォッサ」になる。母音が「a」から「o」にずれている。これは体系的な母音推移であり、ランダムな訛りではない。特定の環境下で、特定の母音が規則的に変化するパターンがある。
(この世界の言語にも、前世の世界と同じような音韻変化の規則がある)
八歳のエルネストのノートには、方言ごとの音韻対応表が作られ始めていた。前世の「比較言語学」の手法を、無意識のうちに再現している。
ある日、市場で珍しい人物に出会った。
白い僧服を着た老人だった。巡回司祭——各地の教会を回って宗教行事を執り行う聖職者だ。彼は市場の広場に簡易な祭壇を設け、集まった人々に短い祈祷を行っていた。
祈祷の言葉は、現代語ではなかった。
エルネストの耳が、一瞬で反応した。
祈祷に使われている言語は、現代語と似ているが異なっていた。語彙の一部は現代語と明らかに同根だが、文法構造が違う。動詞の活用形が見たことのないパターンで変化し、語順も現代語のSVOとは異なっている。
祈祷が終わった後、エルネストは老司祭に駆け寄った。
「すみません。さっきの祈りの言葉は、何語ですか」
老司祭は目を細めて笑った。
「ほう、興味があるかね。あれは典礼語だ。教会の儀式で使う古い形式の言葉でな。千年以上前から変わっていない」
「現代語と似ている部分と、全然違う部分がありますよね。語順が違う」
老司祭の眉が少し上がった。八歳の子供から「語順」という言葉が出てくることに驚いたのだ。
「よく気づいたね。典礼語は古い言葉だからな。今の言葉とは語順が違う。昔は『動詞が先に来る』言い方をしていたらしい。今は『主語が先に来る』だろう」
VSO型からSVO型への語順変化。
エルネストの脳内で、前世の知識が鋭く反応した。ケルト語派がVSO型を維持している一方で、ゲルマン語派やロマンス語派はSVO型に移行した——前世の比較言語学の知見と、この世界の言語変化が重なった。
「典礼語の文法を教えてくれませんか」
「わしは司祭であって学者ではないからのう。祈祷の文句を暗記しているだけで、文法は分からん。古代語の文法をちゃんと知りたければ、王都の大図書館か、王立魔法学院に行くしかないだろう」
「魔法学院?」
「ああ。呪文は古代語で書かれているからな。学院には古代語の文献がいくらか残っている……はずだ。わしは行ったことがないが」
呪文は古代語で書かれている。
その一言が、エルネストの中に深く刺さった。
この世界の魔法は「呪文の詠唱」で発動する。その呪文が古代語で構成されているなら——呪文は「言語」だ。言語学の分析対象になる。
だが八歳のエルネストには、呪文の実物に触れる手段がなかった。ラング家に魔導士はいない。辺境の領地には魔法の教育機関もない。呪文は王都の魔法学院で教えられるものであり、辺境の下級貴族の三男坊がアクセスできる代物ではなかった。
(古代語。呪文。魔法学院。……遠いな)
八歳のエルネストは市場の端に座ったまま、夕暮れの空を見上げた。
* * *
九歳、十歳、十一歳。
前世の記憶は、年を追うごとに鮮明さを増していった。
九歳の時、「統語論」という学問の名前を思い出した。文の構造を分析する言語学の一分野。主語と述語の関係、修飾語の配置、節と句の入れ子構造。
十歳の時、「チョムスキー」という名前が浮かんだ。アメリカの言語学者。生成文法理論の創始者。すべての人間の言語に共通する「普遍文法」の存在を提唱した人物。前世の自分はその理論の信奉者だった。
十一歳の時、前世の記憶がある夜、一気に溢れ出した。
交通事故。暗い道。ヘッドライトの光。衝撃。そして——暗転。
エルネストはベッドの上で飛び起き、汗びっしょりになっていた。
自分は死んだのだ。前の世界で。交通事故で。二十六歳で。
深夜の暗い部屋で、十一歳の少年は両手を見つめた。震えている。
(僕は……音無言葉だ。東京大学の言語学研究科で統語論を研究していた。論文を書いていた。恩師がいた。研究室があった。そして——死んだ)
すべてが繋がった。断片的だった記憶の欠片が、一つの人生として像を結んだ。
しばらくの間、エルネストは何も考えられなかった。前世の記憶を受け入れるのに、丸三日を要した。食欲を失い、熱を出し、母マルタに「風邪だ」と言い訳をした。
三日後、熱が引いた朝。
エルネストは机に向かい、新しいノートを開いた。
そして一行だけ書いた。
『この世界の言語を、体系的に記述する。前世の言語学の全ての知識を用いて』
十一歳の丸い字は、少しだけ大人びた筆跡に変わっていた。
* * *
それからのエルネストは、傍目には変わらない「変わった子」だった。だが内面は根本的に変わっていた。
彼は二つの人生を同時に生きていた。
外面はラング家の三男坊。反抗期にも入らず、兄たちの陰で静かに本を読んでいる地味な少年。
内面は音無言葉。二十六年分の言語学の知識を持つ研究者が、新しい世界の言語を貪欲に分析していた。
十二歳の時、ラング家に家庭教師がやってきた。
三兄弟の基礎教育を担当する、ゲオルク・ヒルシュという中年の元学校教師だ。温和で忍耐強いが、才能には乏しい。それでも辺境の下級貴族が雇える家庭教師としては上出来の部類だった。
ゲオルクの授業は、読み書き、算術、歴史、そして——初歩的な魔法理論。
「さて、今日は魔法の基礎について話そう。魔法は詠唱によって発動するものだ。詠唱とは、特定の文言を正確に唱えることで、世界に魔力を通じた変化を引き起こす行為を指す」
「先生。呪文は何語で書かれているんですか」
エルネストが即座に質問した。ゲオルクは少し面食らって答えた。
「古代語だ。千年以上前の言葉でな。今の言葉とは全く違う。呪文は一字一句暗記して、正確に唱えるものだ。意味を考える必要はない」
「意味を考えなくても発動するんですか」
「ああ。むしろ意味を考えてはいけない。余計なことを考えると集中が乱れて、魔力の流れが不安定になる。呪文は暗記あるのみだ」
エルネストは黙って頷いた。だが内心では、強い違和感を覚えていた。
言語学者にとって、「意味を考える必要はない」という言葉は、あまりにも異質だった。
言語は意味を伝達するための体系だ。言語が存在するのは、意味があるからだ。「意味を考えなくてもいい言語」など、言語学的にはありえない。
もし呪文が本当に「古代語」で書かれているなら、そこには文法があり、意味がある。それを無視して「発音だけ暗記する」のは、外国語の歌を歌詞の意味も分からずにカタカナで丸暗記するようなものだ。
(いや、そもそもこの世界の人々は「言語を分析する」という発想自体を持っていないのかもしれない。言語学という学問がない世界では、呪文を「言語」として扱うという視点が生まれない)
ゲオルクは次に、実際の呪文を一つだけ教えてくれた。
火属性の最も基本的な魔法、灯火の呪文。小さな火を灯すだけの、子供でもいたずらに使う程度のものだ。
「灯れ、小さき火よ。灯火」
ゲオルクがそう唱えると、指先にマッチの火程度の小さな炎が灯った。
「さあ、真似してごらん」
エルネストは呪文を唱えた。
「灯れ、小さき火よ。灯火」
指先に、何も起きなかった。
「うーん。もう一度。魔力を集中して」
何度唱えても結果は同じだった。指先は冷たいままだ。
ゲオルクは困った顔をしたが、すぐに取り繕った。
「魔力が弱い子供にはよくあることだ。大きくなれば使えるようになるかもしれない。気にしないでいい」
アルベルトは二回目で灯火を灯した。フリッツは一回目で成功した。三男だけが、何度やっても火が灯らない。
その夜、エルネストはベッドの中で天井を見つめながら考えていた。
自分の魔力が弱いことは分かっていた。この世界の人間は程度の差はあれ魔力を持っているが、エルネストの中に流れる魔力はほとんど感じ取れない。水たまりの底に溜まった泥水のように、薄くて少ない。
(魔力の量は生まれ持ったものだ。それは変えられない。だが——呪文は「言語」だ。言語なら、分析できる。分析できるなら、最適化できる。最適化できれば——少ない魔力でも効率よく使えるかもしれない)
仮説にすぎない。検証する手段もない。だが、言語学者の直感が告げていた。
この世界の呪文には、改善の余地がある、と。
「灯れ、小さき火よ」
エルネストはベッドの中で、もう一度だけ呪文を囁いた。
指先に火は灯らなかった。
だが——魔力のかすかな揺らぎは、確かに感じた。
(あとは、「正しい言葉」を見つけるだけだ)
それがどれほど長い道のりになるか、十二歳のエルネストにはまだ分かっていなかった。




