不正疑惑
医務室を退院した翌日の朝、エルネストは久しぶりに教室に足を踏み入れた。
入口の扉を開けた瞬間、教室内の空気が変わったのが分かった。
百人近い学生たちの視線が、一斉にエルネストに集まる。好奇心、警戒心、畏怖、嫉妬、困惑——さまざまな感情が入り混じった、刺すような重さだ。
決闘の前までは、エルネスト・ラングは「いてもいなくても分からない」存在だった。E判定の落ちこぼれ。講義では常に最後列に座り、実技では最下位。名前すら知らない学生が大半だった。
それが一夜で反転した。
今やB判定のフラム侯爵子息を倒した「問題の男」として、学院中にその名が知れ渡っている。
エルネストは視線を無視して最後列に向かった。いつもの席。いつもの位置。だが周囲の席にいた学生たちが、微妙に距離を取っている。一席分の空白が、エルネストの両隣に生まれていた。
「おはよう、エルネスト。腕の具合はどうだ?」
カミルだけが、いつも通りの調子で隣の席に座ってきた。この男の鈍感な誠実さが、今はありがたかった。
「おかげさまで。もう痛みはほとんどない」
「よかった。……で、聞いたぞ。管理部から技術使用禁止が出たって」
「耳が早いな」
「学院の噂は光より速い」
カミルが苦笑した。
一限目の講義が始まると、表面上は通常の授業風景に戻った。だが教官の声に耳を傾ける学生たちの目が、ちらちらとエルネストの方に向けられるのは止まらなかった。
講義の内容は魔法理論の基礎——「魔力量と魔法威力の比例関係」だった。教壇に立つ教官が、黒板に魔力量(入力)と魔法威力(出力)のグラフを描く。
「この比例関係は、数千年にわたる魔法学の根幹をなす原理である。魔力量がA判定の者はA判定の威力を出し、E判定の者はE判定の威力しか出せない。これは覆しようのない——」
教官の言葉が、一瞬だけ止まった。
エルネストの存在が、今まさにその「覆しようのない」原理に疑問符を突きつけていることに、教官も学生も気づいている。
教官は軽く咳払いをして、講義を続けた。だが、その声にはいつもより少しだけ力がこもっていなかった。
講義が終わり、昼休みに入った。
エルネストが教室を出ようとしたとき、三人の上級生が廊下で待ち構えていた。
三年生の火属性の学生たちだ。腕の立つ上級生で、フラム家とは別の貴族の子弟。リーダー格の男が一歩前に出た。
「お前がエルネスト・ラングか。決闘でフラムのぼんぼんに勝ったっていう」
声の調子は友好的ではなかった。
「それがどうかしましたか」
「いろいろと噂を聞いてな。呪文の文法がどうとか、古代語がどうとか。正直、何を言っているのかさっぱり分からんが——」
リーダー格の男が顎をしゃくった。
「一つだけ分かることがある。お前がやったことは不正だ」
「決闘裁定は正式に行われ、審判も認めています。不正の判定は出ていません」
「決闘の結果の話じゃない。呪文改変そのものが不正だと言っている。呪文は千年の歴史を持つ伝統だ。それを勝手に書き換えるなど、魔法を侮辱する行為だ」
エルネストは静かに相手を見た。
この手の反応は予想していた。前世でも、言語学の定説に異を唱えるたびに「伝統を侮辱するな」と言われてきた。人間は変化を恐れる。特に、自分が長年信じてきたものの土台が揺らぐ変化を。
「千年の伝統の中に誤りがあったとしても、それは伝統の価値を否定することにはなりません。むしろ、誤りを正すことが伝統をより良いものにする——」
「理屈を並べるな!」
リーダー格の男が声を荒げた。廊下にいた他の学生たちが足を止め、遠巻きに様子を窺い始める。
「お前なんかがフラムのぼんぼんに勝てたのは、インチキのおかげだ。まともに戦えば、お前はこの学院で最弱のE判定だ。それを忘れるなよ」
三人の上級生は去り際にエルネストの肩をぶつけていった。わざとらしい所作だったが、暴力に発展しなかっただけましだろう。
「大丈夫か、エルネスト」
カミルが心配そうに駆け寄ってきた。
「ああ。想定内だ」
「想定してたのかよ……」
「研究者は反論に慣れている。前世——いや、前に似たような経験がある」
エルネストは言い間違いを誤魔化すように歩き出した。カミルは首を傾げたが、追及はしなかった。
* * *
午後の実技演習。
エルネストは管理部の規制に従い、通常版の呪文のみを使用した。いつもの弱いオレンジ色の炎弾。藁人形を少し焦がす程度の威力。
だが今日は、その「弱い炎弾」を見る周囲の目が違っていた。
以前は、E判定の弱い炎弾を見ても誰も関心を示さなかった。当たり前の光景だからだ。だが今は——あの「白黄色の火球」を撃てる男が、あえて弱い炎弾を撃っている、という文脈が加わっている。
同じ現象でも、文脈が変われば意味が変わる。言語学でいう語用論——コンテクスト依存的な意味の変化だ。
(面白い。魔法だけでなく、人間関係にも「文法」がある)
実技の合間に、エルネストは他の学生たちの詠唱を観察し続けた。管理部に技術の使用を禁じられていても、分析を禁じられたわけではない。耳と頭脳は自由だ。
ある水属性の学生の詠唱が、エルネストの注意を引いた。
訓練場の端で、一人で水弾を撃っている女子学生。銀色がかった水色の髪。
ティアだった。
彼女は水弾を放とうとしていたが——やはり、うまくいっていなかった。手の平から現れた水の塊が、発射の瞬間に四方八方に飛び散る。制御を失った水が地面を叩き、飛沫が周囲に散る。
ティアは唇を噛み、もう一度構えた。詠唱を唱える。
「水よ集え、我が手に宿れ、敵を貫く堅氷の槍となりて——」
エルネストの耳が、その「けんぴょう」の発音を精密に捉えた。
この世界の音声学的にも、エルネストの前世の知識においても——その音素列には明確な問題があった。
「けんぴょう」の「ぴょう」。両唇破裂音「p」から直接拗音「yō」への移行。この移行には舌先を歯茎から硬口蓋方向に素早く動かす必要がある。ティアはこの移行で一瞬だけ舌の位置が後退し、意図しない口蓋化が起きている。
結果として、「ぴょう」が「ひょう」に近い音で発音される瞬間がある。この微妙な音のずれが——
(古代語の音韻体系において、破裂音と摩擦音は魔力の流れ方が根本的に異なる。破裂音は魔力を瞬間的に集中させ、摩擦音は魔力を持続的に分散する。ティアの発音ずれは、「集中させるべき魔力を分散させている」ことになる。だから水が四方八方に散るのだ)
エルネストは二日前のティアの言葉を思い出した。「私の魔法は暴発するんです」と言った、あの控えめな声。
原因は分かった。少なくとも、仮説としては成立する。
だが、仮説だけでは何も変わらない。検証が必要だ。ティアの前で古代語の発音矯正を行い、暴発が止まるかどうかを確認しなければならない。
(やりたい。今すぐにでも。……だが管理部の目がある)
実技演習が終わり、エルネストは更衣室に向かった。着替えを済ませて出ると、訓練場の出口にティアが待っていた。
「エルネスト・ラング」
ティアは正面から呼びかけてきた。二日前の控えめな態度とは少し違う。決闘を見た後の、彼女の中の何かが変わったのかもしれない。
「決闘、見ました。……すごかった」
「ありがとう。約束通り、降参はしなかった」
ティアの口元がかすかに笑った。だがすぐに真顔に戻り、声を低くした。
「管理部から技術使用禁止が出たって聞きました。それでも——私の呪文を見てくれますか」
エルネストは少し考えた。
管理部の規制は「未認可の魔法技術の使用」を禁じている。だが、他者の詠唱を「聞く」ことは技術の使用には当たらない。発音の分析も、助言を行うことも——直接的に魔法を改変するのでなければ、規制の文言には抵触しないはずだ。
「……分析だけなら、規制には触れない。今日の放課後、どこか静かな場所で詠唱を聞かせてもらえるか」
ティアの青い目が、ほんの少しだけ輝いた。
「学院の北棟に空き教室がいくつかあります。普段誰も使っていないところ」
「分かった。夕食後に北棟で」
ティアは頷き、水色の髪を揺らして足早に去っていった。
エルネストは空を見上げた。夕暮れが始まっている。
(管理部の規制。上級生の敵意。学院長の動き。変数が多すぎる。……だが、やるべきことは明確だ)
仮説を検証する。ティアの暴発の原因を特定し、矯正できることを証明する。
それが「呪文の文法修正は全属性に適用可能である」という、次の仮説の検証にもつながる。
そしてもう一つ——エルネストの中の、前世から引き継いだ信念が疼く。
ティアは二年間、暴発のせいで実戦訓練を外されてきた。C判定の魔力を持ちながら、まともに魔法を使えない。その原因が発音の問題——つまり教育の欠陥にあるなら、彼女は能力ではなくシステムの不備に足を引っ張られてきたことになる。
前世の音無言葉は、そういう不公正を許せない人間だった。
エルネスト・ラングも、同じだ。
* * *
夕食後。
学院北棟の三階、使われていない魔法理論の旧教室。埃をかぶった長机と黒板がある以外は何もない、がらんとした空間だった。窓から夕暮れの残光が差し込んでいる。
ティアが先に到着していた。水属性の教科書と、小さなノートを胸に抱えている。
「来てくれたんですね」
「約束したからな。……それじゃ、さっそく始めよう。まず、水弾の詠唱を一度そのまま唱えてみてほしい。実際に魔法を発動させる必要はない。詠唱だけでいい」
ティアは頷き、姿勢を正した。
「水よ集え、我が手に宿れ、敵を貫く堅氷の槍となりて、いざ放たん。水弾」
エルネストは目を閉じて聞いた。
前世の言語学者としての「耳」が起動する。音素の一つ一つを分解し、調音位置と調音方法を脳内でマッピングしていく。
「けんぴょう」の「ぴょう」——やはり、実技中に聞いたのと同じ音のずれがある。両唇破裂音「p」から拗音への移行で、舌が後退して口蓋化が起きている。
だが、それだけではなかった。
「集え」の母音の響き方にも微妙な偏りがある。そして「いざ放たん」の「ん」——鼻音の閉鎖のタイミングが遅い。
エルネストは目を開いた。
「三つ問題がある。大きい順に言う」
ティアの表情が緊張した。
「一つ目。『けんぴょう』の発音。これが最大の原因だ。古代語の音韻体系において、『ぴょう』は両唇破裂音から始まる音素列であり、魔力を一点に瞬間集中させる効果を持つ。だが君の発音では、この破裂音が摩擦音に近づいている瞬間がある。結果として、魔力が集中ではなく分散する——これが暴発の直接的な原因だ」
ティアの目が大きくなった。
「二つ目。呪文全体の語順が、現代語のSVO型に準拠しているため、魔法の発動が遅い。これは全属性共通の問題で、古代語のVSO型に戻すことで改善できる。ただ、これは暴発の原因とは別の効率の問題だから、後回しにする」
「三つ目は?」
「結びの『いざ放たん』。これは炎弾の呪文と同じ構造的欠陥で、推量の助動詞が使われている。完了相に修正すべきだが——これも二つ目と同様、効率の問題であって暴発の原因ではない」
ティアは少しの間、黙ってエルネストの言葉を反芻していた。
「つまり——私の暴発の原因は、発音のずれ。たった一箇所の」
「そうだ。『ぴょう』の音を正確な両唇破裂音で発声できるようになれば、暴発は止まるはずだ。仮説の段階ではあるが——かなりの確信がある」
ティアは教科書をぎゅっと握りしめた。
「二年間。二年間ずっと、原因が分からなかった。教官たちは『魔力の流れに癖がある』としか言ってくれなくて。でも——発音だったんですね。たった一つの音の」
声が少しだけ震えていた。泣きそうだが、泣くまいとしている顔。
エルネストは静かに言った。
「教官たちが気づかなかったのは無理もない。この世界には音声学という学問がない。発音の微細な違いを体系的に分析する方法論そのものが存在しないんだ。君の責任じゃない」
ティアは深呼吸した。
「直してください。その発音を——私に、正しい発音を教えてください」
「分かった。ただし、今日は分析だけにしておく。発音矯正は明日以降、毎日少しずつやっていく必要がある。口の筋肉の使い方を変えるのは、一日ではできない」
「……何日かかりますか」
「個人差がある。だが、目安としては一週間から十日。毎日三十分ずつ練習すれば」
ティアは真剣な顔で頷いた。
「毎日来ます。朝でも夜でも」
エルネストは少し驚いた。この真面目さは——教科書に付箋をびっしり貼っていた几帳面さと一致する。
「……分かった。明日の放課後、同じ場所で」
ティアは大きく頷き、教科書を抱えて立ち上がった。扉に向かいつつ立ち止まり、振り返った。
「エルネスト」
初めて名前で呼ばれた。
「ありがとうございます。……信じてもいいですか。私の魔法が、直るって」
エルネストは少し考え、正直に答えた。
「『信じていい』とは言えない。まだ仮説の段階だから。だが——仮説を検証するために全力を尽くす。それは約束する」
ティアは微笑んだ。今度はちゃんとした笑顔だった。
「それで十分です」
水色の髪が扉の向こうに消えた。
一人残されたエルネストは、古い黒板の前に立ち、チョークを手に取った。
黒板一面に、ティアの詠唱の音声学的分析を図式で描き出す。国際音声記号に相当する前世の記号体系を応用して、この世界の言語の音素を分類し、ティアの発音パターンをマッピングしていく。
誰も見ていない深夜の教室で、エルネストのチョークは止まらなかった。
(言語は、世界そのものだ——恩師の言葉。この世界では文字通りそうだ。呪文が言語で構成されているなら、正しい発音は正しい魔法に直結する。ティアの暴発は教育の失敗であり、システムの欠陥だ。直せる。直すべきだ)
黒板が文字と記号で埋まった頃、窓の外は完全な暗闇だった。
エルネストはチョークを置き、自分の手を見た。白い粉まみれの指。前世でも論文の推敲で深夜まで作業した時、同じような手をしていた。
(変わらないな、本当に)
旧教室を出て、寮に向かう暗い廊下を歩く。
途中、北棟の窓から夜空が見えた。
星座は静かに輝いている。だが——その一角が、数日前に見たのと同じように、ほんの僅かに揺らいでいる気がした。
今度は見間違いではないかもしれない、とエルネストは思った。
だが、今はそれよりも考えなければならないことがある。
ティアの発音矯正。管理部の規制への対処。上級生たちの敵意。そして——学院長の動き。
一つずつ。一歩ずつ。
言語学者は、未知の言語を解読する時もそうしてきた。一文字ずつ、一音素ずつ、辛抱強く。
エルネストは暗い廊下を歩き続けた。




