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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第1章:落ちこぼれの決闘

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文法の剣

 決闘の翌日、王立魔法学院は蜂の巣を突いたような騒ぎだった。


 E判定の落ちこぼれが、B判定のフラム侯爵子息に勝利した——その事実は一夜にして学院中に広まり、朝の食堂は普段の何倍もの熱気に包まれていた。

 テーブルのあちこちで昨日の決闘の話題が飛び交い、尾ひれがつき、時間とともに事実から乖離した噂が膨らんでいく。


「ラングが禁術を使ったらしい」

「いや、闇市場で手に入れた魔道具を隠し持っていたんだ」

「知り合いの先輩が見ていたんだけど、炎弾の色が普通と全然違ったって。白くて黄色い火球って、聞いたことないだろ」

「そもそもE判定が炎壁を破壊するなんて、物理的にありえないんだから、何かインチキをしたに決まっている」


 噂の大半は「不正使用」の方向に傾いていた。常識の枠内で理解できないことが起きたとき、人間は「例外」ではなく「不正」を疑う。それはこの世界でも前世でも変わらない——エルネストは医務室のベッドの上でそう考えていた。


 左腕の火傷は回復魔法で表面は塞がったが、魔力消耗の回復には時間がかかる。医務官から二日間の安静を命じられ、今日は講義も実技も免除だ。


「……静かでいいな、医務室は」


 白い天井を見上げながら呟く。石造りの小さな個室で、窓からは中庭の緑が見える。学院の喧騒はここまでは届かない。


 だが、静けさは長くは続かなかった。


 午前十時頃、医務室の扉がノックされた。


「エルネスト・ラング君。学院管理部のクラウス・レイバン(・・・・・・・・・)です。入ってもよろしいですか」


 管理部。学院の規則運用と懲罰を担当する部署だ。


「どうぞ」


 入ってきたのは、見るからに神経質そうな中年の男だった。細い銀縁の眼鏡をかけ、管理部の灰色のローブを隙なく着こなしている。手には分厚い書類束を抱えていた。


「お加減はいかがですか」

「ひどくはないです。左腕はまだ痛みますが」

「それは何よりです。さて——昨日の決闘裁定の件で、いくつかお話を伺いたいのですが」


 クラウスは医務室の椅子に腰を下ろし、書類を膝の上に広げた。


「まず、決闘裁定の結果は規則に基づき正式に記録されます。エルネスト・ラング君の勝利により、告発者・レオンハルト・フラム君の告発事由『呪文改変および器物損壊の疑い』は棄却されます。これ以上の追及は行われません」


「それは理解しています」


「ただし——」


 クラウスの眼鏡がかすかに光った。


「決闘裁定とは別に、学院として独自の調査を行う権限が管理部にはあります。特に、『未知の魔法技術の使用』に関しては、学院の安全管理上、詳細な報告が必要となります」


 エルネストは枕に頭を預けたまま、クラウスを見つめた。


「具体的に、何を知りたいのですか」


「昨日の決闘で使用された炎弾について。千人以上の観客が目撃しています。炎弾の色、温度、破壊力——いずれもE判定の魔力で生成可能な範囲を大幅に超えていました。これをどのように説明されますか」


 エルネストは少し考えた。ここで嘘をつくことはできる。だが、千人が見た以上、いずれ真相は明らかになる。


「呪文の文法を修正しました」


 クラウスのペンが止まった。


「文法を、修正した?」


「現在学院で教えられている炎弾の呪文は、古代語の原典から口伝の過程で文法が劣化しています。具体的には、完了相を示す助動詞が脱落し、不定の相に置き換わっている。これを原典の文法に基づいて修正することで、同じ魔力消費量で魔法の効率が飛躍的に向上します」


 クラウスの表情が、困惑から不信に変わった。


「つまり……呪文の言い方を変えただけで、威力が上がったと?」


「そうです」


「それは……学院の魔法学において、前例のない主張です」


「前例がないのは、誰も検証していなかったからです」


 クラウスは書類にペンを走らせた。その筆跡は乱れている。彼自身がこの報告をどう処理すべきか、分からないのだろう。


「この件は上層部に報告します。追って正式な調査が入る可能性があります。それまで、この技術の使用は控えてください」


「控えろ、というのは」


「学院の安全管理規則第十七条。未認可の魔法技術は、安全性が確認されるまで使用を禁ずる。違反した場合、停学処分の対象になります」


 エルネストは小さく息を吐いた。


「……分かりました」


 クラウスが退室した後、エルネストはベッドの上で腕を組んだ。


(予想通りだ。学院の体制側は、理解できないものを「規制」することで対処しようとする。前世の学会と同じだな)


 前世でも、当時の主流であったチョムスキー理論の枠組みに収まらない研究を発表した際、学会の重鎮から「方法論が認められていない」という理由で論文をリジェクトされた経験がある。新しい理論は、まず既存の権威と衝突する。


 だが、真実は真実だ。検証可能な事実は、政治的に封じることはできない。時間がかかるだけだ。


 午後になって、別の訪問者があった。


「失礼するよ。」


 基礎魔法学のエルザ教授。昨日の決闘の審判を務めた白髪交じりの女性教官が、穏やかな表情で医務室に入ってきた。ただし、その穏やかさの奥に鋭い知性が光っているのは相変わらずだった。


「教授。お見舞いに来ていただいたのですか」


「半分はお見舞い、半分は好奇心よ」


 エルザは椅子に座り、エルネストをまっすぐに見た。


「午前中にクラウスが来たでしょう。あの報告書は管理部から学院長にも届くわ。内容は聞いたわ——呪文の文法修正で威力を向上させた、と」


「はい」


「管理部は『未認可の技術』として規制しようとしている。でも私は、あなたに一つ別の質問がしたいの」


 エルザは一拍ためた。


「あなたは以前、私の講義でこう聞いたわね。『この呪文はなぜこの語順なのか』と。あの質問への答えを、もう見つけた?」


 エルネストは少し驚いた。あの質問を覚えている教官がいたとは思わなかった。


「……部分的には。古代語の基本語順はVSO型であり、現代語のSVO型とは異なります。呪文は古代語で構成されているにもかかわらず、現代語の語順に引きずられて変質している。語順を古代語に戻すだけで、詠唱から発動までの時間が短縮されます」


 エルザの目が少し大きくなった。


「VSO型。聞いたことのない概念ね。それは——この世界の言語学では使われていない用語よ」


「この世界に言語学はありません。少なくとも、体系的な学問としては」


 言い切ったエルネストに、エルザは少しだけ笑った。


「なるほど。あなたは、この世界にない学問の知識を持っている。それが——あの炎弾の正体」


 エルネストは答えなかった。前世の記憶のことを明かすつもりはない。異世界転生などという話をすれば、頭がおかしい人間だと思われるだけだ。


 だがエルザは、それ以上追及しなかった。代わりに、別のことを言った。


「管理部の規制は、おそらく長くは続かないわ。あの決闘を千人が見ている。E判定の魔力でB判定を破る方法がある——その事実は、もう隠せない。学生たちの間で話題になっているし、教官の間でもざわついている」


「ざわついて、それでどうなるんですか」


「二つの可能性がある。一つは、学院上層部があなたの技術を正式に認め、研究の自由を認める道。もう一つは——」


 エルザの表情が少しだけ曇った。


「上層部が、あなたの技術を危険視して、もっと強い手段で封じ込めに動く道」


「どちらになりそうですか」


「分からないわ。でも——私は教官として、あなたの発見が正しいならそれを学院全体で共有すべきだと思っている。魔法の効率を向上させる技術が本当にあるなら、それはすべての学生に開かれるべきよ」


 エルネストの胸のどこかで、前世の記憶が疼いた。すべての人に開かれるべき——音無言葉が信じていたこと。言語学はエリートのための閉じた学問ではなく、すべての人が言葉をよりよく使うための知恵であるはずだと。


「ありがとうございます、教授」


「お礼を言うのは早いわ。これから大変になるわよ」


 エルザは立ち上がり、医務室を出て行った。


     * * *


 夕方。


 三人目の訪問者は、予想外の人物だった。


 医務室の扉が乱暴にノックされ、返事を待たずに開いた。深紅のローブ。金赤の髪。碧眼。


「よう、ラング」


 レオンハルト・フラムが、右手に紙袋を提げて立っていた。


「……フラム侯爵子息」

「レオンハルトでいいと言っただろう。敬語もやめろ。俺がお前に負けた以上、対等だ」


 レオンハルトは椅子にどかりと腰を下ろし、紙袋をベッドの上に放り投げた。中身は——焼きたてのパンと、果実の砂糖漬け(コンフィチュール)だった。


「見舞いの品だ。学院の食事は不味いからな」


「……ありがとう。意外だな」


「何がだ」


「負けた相手の見舞いに来るとは。名門の嫡男として、面子に関わるのでは」


 レオンハルトは鼻で笑った。


「面子? くだらん。俺は自分が見たいものを見るために決闘を仕掛けた。そして見たいものを見た。満足している。勝ち負けはどうでもいい」


 嘘ではなさそうだった。レオンハルトの碧眼には、敗者の暗さはなかった。むしろ——何かを見つけた人間の、生き生きとした輝きがある。


「聞きたいことがある」


 レオンハルトが身を乗り出した。


「お前が昨日の決闘で使った技術。呪文の文法を修正して効率を上げるというやつだ。あれは——火属性だけに使えるものか? 他の属性でも可能なのか?」


「理論上は全属性に適用可能だ。古代語の文法劣化は属性によらず共通のパターンで起きているから」


「ということは、水でも風でも雷でも土でも——文法を修正すれば、同じように威力が跳ね上がるということか」


「跳ね上がるかどうかは検証が必要だが、効率が向上する可能性は高い」


 レオンハルトの碧眼が鋭くなった。


「それは——とんでもない話だぞ。王国中の魔導士の戦力が根本から変わるということだ。E判定でもA判定並みの魔法が使えるなら、軍事バランスが——」


「そこまでは行かない」


 エルネストは首を振った。


「文法修正は効率を上げるだけで、魔力そのものを増やすわけじゃない。E判定がA判定に匹敵するには、効率だけでは足りない場面は当然ある。魔力総量が物を言う局面は残る」


「だが、昨日お前は俺に勝った。E判定がB判定に」


「あれは——正直に言えば、運と相手の判断ミスに助けられた部分が大きい。お前が途中で杖を拾って続行していたら、僕は魔力切れで負けていた」


 レオンハルトは腕を組み、しばらく考え込んだ。


「……だとしても、革命的な技術であることに変わりはない。管理部はどう言った」


「未認可技術として使用禁止を命じられた」


「はっ。予想通りだ。あいつらは新しいものが怖いだけだ」


 レオンハルトは立ち上がった。


「ラング。一ついいことを教えてやる。管理部の報告は学院長に上がる。学院長が動けば、お前の研究は潰される。だが——フラム侯爵家の影響力を使えば、多少の時間稼ぎはできる」


 エルネストは驚いて目を瞬いた。


「……なぜ、そこまで」


「言っただろう。俺は退屈していた。お前の技術は退屈を壊してくれた。そのお返しだ」


 レオンハルトは深紅のローブを翻して医務室を出て行った。


 扉が閉まった後、エルネストはパンの紙袋を手に取った。温かい。焼きたてだ。

 一口齧ると、学院の食堂の麦粥とは比べものにならない味がした。


(名門の見舞いの品は美味いな……)


 場違いな感想の後に、エルネストは真面目な顔に戻った。


 レオンハルトが「学院長が動く」と言った。ゲルハルト・アイゼン。学院長にして王国最高魔導士の一人。決闘の場にも来ていたのだろう。あの闘技場にいた千人の中に。


 学院長が自分の研究をどう評価するか。それが、今後の命運を分ける。


 エルネストは医務室のベッドで天井を見つめながら、これからの選択肢を整理した。


 管理部の規制に従って研究を中断するか。

 規制を無視して密かに研究を続けるか。

 あるいは——正面から学院長と議論し、研究の正当性を主張するか。


(どれを選んでも、穏やかな学院生活は終わっている。あの決闘で、すべてが変わってしまった)


 前世の自分なら、おそらく三番目を選ぶだろう。学会の権威に正面からぶつかり、論文で勝負する。それが音無言葉という人間だった。


 だがエルネスト・ラングは、この世界で生きている。前世の記憶は持っているが、この世界の政治と権力構造の中に身を置いている。学術論争ではなく、魔法と貴族と王権が支配する世界での——生身の勝負だ。


(慎重に行かなければ。だが、引くつもりもない)


 窓の外では、夕暮れの空に一番星が輝き始めていた。


 医務室の静けさの中で、エルネストは再びノートを取り出した。

 火傷の左腕が痛む。だが右手は動く。ペンを握り、新しいページを開いた。


 今日一日で得られた情報を整理する。管理部の動き、エルザ教授の助言、レオンハルトの申し出。これらの変数を、言語学者の分析フレームワークで整理する。


 そしてノートの最後に、もう一行。


 『決闘勝利後の課題一:ティア・ノーヴァシルドの詠唱分析——保留中。退院後に連絡する方法を探す』


 エルネストのペンが止まった。彼女は決闘を見に来ると言っていた。見ただろうか。見たなら、何を思っただろうか。


(まあ、退院してからだ)


 ペンを置き、レオンハルトの差し入れのパンを手に取る。

 二口目を齧りながら、エルネストは前世から変わらない自分の性分について考えた。


 どんな状況でも、結局は「次の研究」のことを考えている。

 きっと死ぬ時もそうだろう。前世でも、交通事故の瞬間に「死ぬ」ではなく「論文の締め切りが」と思っていた気がする。


 救いようのない研究馬鹿。前世でも今世でも、それだけは変わらない。


 エルネストは苦笑して、最後の一切れのパンを口に放り込んだ。


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