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魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
第1章:誤訳の発見

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第5話:開戦

 エルザ教授の手が振り下ろされた瞬間、レオンハルトが動いた。


 速い。


 白杖を一閃させるのと同時に、詠唱(えいしょう)が闘技場に響き渡る。


「火よ勢え、風よ送れ、螺旋(らせん)(うず)をなして敵を灼け。旋火連弾(せんかれんだん)!」


 火と風の複合魔法。三つの火球が竜巻のように回転しながら、エルネストに向かって突進してきた。開幕から全力。手加減なし。一発一発がB判定の魔力を惜しみなく注ぎ込んだ、Cランクの魔導士なら一撃で戦闘不能に追い込む威力の弾丸だ。


 観客席が沸いた。「さすがフラム侯爵子息!」


 だが——エルネストの方が、僅かに速かった。


 語順最適化。動詞を文頭へ。


固まれ(・・・)炎よ、包め(・・)我が身を、(かべ)となりたれ、あらゆる矢を弾き返したり。火盾(ファイアシールド)!」


 通常の炎弾で約二秒かかる詠唱を、語順の入れ替えによって一秒未満にまで圧縮した。レオンハルトの旋火連弾が到達する〇・五秒前に、エルネストの前に深紅の炎の壁が展開される。


 三つの火球が壁に激突した。


 ゴォオォン!


 衝突音が闘技場を揺るがした。火花が散り、熱風が観客席まで押し寄せる。ハーシュ教官が管理する三重の防護結界が、観客への被害を防ぐために青白く発光した。


 煙が晴れる。


 エルネストの火盾は——砕けていなかった。


 表面にヒビが走り、右端が部分的に崩れている。だが壁そのものは健在だ。B判定の複合魔法を正面から受けて、E判定の防御魔法が耐えた。


 闘技場が、一瞬だけ静まり返った。


 そして——爆発的なざわめきが起きた。


「嘘だろ? E判定の火盾がB判定の複合魔法に耐えた?」

「何が起きた? あんな硬い火盾、見たことないぞ」

「火盾の色がおかしい。普通の火盾は薄いオレンジだろ。あれ、深紅じゃないか」


 レオンハルトは白杖を下ろし、碧眼を見開いた。

 驚きはあったが、動揺はない。むしろ——口元が弧を描いた。


(やはり。何かを隠していた)


 あの火盾は通常の火盾ではない。色も密度も、魔力の圧も違う。E判定の魔力でこの硬度を実現するなど、従来の魔法学の常識では説明できない。


 だが、訓練場の支柱を炭にした「何か」と同じ原理だとすれば——


「面白い」


 レオンハルトは白杖を再び構えた。碧眼に宿る光が、一段と激しさを増す。


「その火盾、二発目は耐えられるか?」


 レオンハルトの詠唱が加速した。白杖が空を薙ぎ、火と風が渦を巻く。


「火よ勢え、風よ送れ、螺旋の渦をなして敵を灼け——旋火連弾(せんかれんだん)!」


 同じ魔法の二連射。今度は六つの火球が、二列に並んで迫ってくる。


 エルネストの火盾は持たない。一発目で損傷が入っている。二発目の全量を受け止める余力はない。


(防御は使い捨てだ。ここからは攻撃に切り替える)


 エルネストは火盾を維持したまま、二つの判断を同時に行った。


 第一。護りを捨てるタイミング。

 第二。反撃の呪文の発声タイミング。


 六つの火球が迫る。距離、十五メートル。十メートル。五メートル。


 三メートルの地点で——エルネストは火盾を消した。


 自ら防御を解いた。


 観客席から悲鳴が上がった。


 だが同時に、エルネストの口から修正版の炎弾の詠唱が放たれていた。


集え(・・)火よ、宿れ(・・)我が手に、焼き尽くせ(・・・・・)敵を、紅蓮の炎と成りたれ(・・・・)放てり(・・・)炎弾(フレイムバレット)!」


 語順最適化+完了相修正。二重の文法修正を施した、現時点でのエルネストの全力。


 手の平に形成された火球は、昨日の訓練で見たのと同じ——中心が白く発光する眩い黄色の球体だった。通常のオレンジ色の炎弾とは、根本的に次元が違う。温度、密度、エネルギーの収束率。すべてが桁外れだ。


 エルネストはそれを、迫り来るレオンハルトの旋火連弾に向かって——ではなく、旋火連弾の「隙間」を縫って、レオンハルト本体に向かって放った。


 六つの火球は回転しながら扇状に広がっているため、弾と弾の間に狭い空隙が存在する。


(言語学者は細部を見る。全体の中に埋もれた、一つの音素の違いを聞き分ける。魔法の弾幕だって同じだ。全体の中の「隙間」を読み取れ)


 白黄色の火球が、旋火連弾の隙間を抜けた。


 レオンハルトの碧眼が見開かれた。


 反射的に白杖を翻し、防御魔法を展開する。


炎壁(フレイムウォール)!」


 レオンハルトの炎壁は、A判定に匹敵する密度を持つ高性能の防御魔法だ。通常のB判定の炎弾なら十発以上を平然と弾き返す。


 エルネストの白黄色の火球が、炎壁に激突した。


 ドゴォォォン!!


 これまでとは次元の違う爆発音が、闘技場全体を揺らした。観客席の防護結界が三枚とも同時に青白く発光し、ハーシュ教官が舌打ちする音が聞こえた。


 爆風が渦を巻き、砂塵が闘技場を覆い尽くす。


 観客席が総立ちになった。悲鳴と歓声と困惑が混じり合い、闘技場の石壁に反響して轟音になる。


 砂塵が晴れていく。


 エルネストは——立っていた。ただし、回避しきれなかったレオンハルトの旋火連弾の一発がかすめた左腕から、焦げた袖の向こうに赤い火傷の跡が覗いている。


 そしてレオンハルトは——


 炎壁は砕けていた。完全に。


 だがレオンハルトも立っていた。炎壁が砕ける直前に身を翻し、爆発の直撃を回避していた。深紅のローブの右肩が焦げ、頬に浅い切り傷。だが戦闘を続行できる状態だ。


 闘技場の石畳には、炎壁があった場所を中心に、直径三メートルの黒い焦げ跡が刻まれていた。


 沈黙が落ちた。


 千人の観客が、目の前の光景を理解しようとして——理解できずに、言葉を失っている。


 E判定の炎弾が、B判定の炎壁を砕いた。


 この世界の魔法の常識において、それはあってはならない事象だった。魔力の量が威力を決める。E判定の魔法はB判定の防御を貫通できない。それは物理法則と同じくらい確固たる「真実」だったはずだ。


 だが現実として、レオンハルトの炎壁は砕け散り、焦げた破片が石畳に散らばっている。


 レオンハルトは焦げた肩に目をやり、それからエルネストに視線を戻した。


「……なるほど」


 その声には、怒りはなかった。痛みの表情すらなかった。


 あったのは——歓喜だった。


「なるほど。お前のやっていることが、少し分かった気がする」


 レオンハルトの碧眼が燃えるように輝いている。


「呪文が違う。俺たちが使っている呪文と、お前が唱えた呪文は同じ炎弾だが、中身が違う。言葉の並びが変わっている。響きが変わっている。だから——魔法の質が変わっている」


 エルネストは左腕の火傷の痛みを噛み殺しながら、レオンハルトの分析力に内心で舌を巻いた。


 一度聞いただけで、呪文の構造変化に気づいた。火属性の天才は耳も良い。


「概ね合っている」


 エルネストは息を整えながら答えた。嘘をつく余裕はなかったし、つく理由もなかった。


「呪文の文法を修正した。この世界の呪文は、古代語の原典から千年の口伝で文法が劣化している。その劣化した部分を直しただけだ。追加の魔力は一切使っていない。E判定のまま、呪文の効率だけを上げた」


 闘技場にエルネストの声が響いた。防護結界が音を反射し、観客席の隅々まで届く。


 千人の観客が、一人残らず聞いていた。


 レオンハルトは右手の白杖を握り直した。


「文法の修正で、効率が上がる。……それで、訓練場の支柱を」

「ああ。あの支柱が最初の実験だった。そしてこの決闘が——二回目の検証だ」


 レオンハルトの眉が僅かに上がった。それから——予想外のことに——笑い声を上げた。


 低く、腹の底から湧き上がる、心からの笑い。


「検証、だと。お前は研究者か。この決闘を実験の場だと思っていたのか」

「違うと言いたいところだが——正直に言えば、半分はそうだ」


 レオンハルトは笑いを収め、白杖を肩の高さに構えた。碧眼に宿る光が、好奇心から闘志に切り替わる。


「面白い。だが——もう一つ教えてやる、ラング」


 レオンハルトの魔力が膨れ上がった。闘技場の空気が震え、石畳が軋む。


「俺にも、奥の手がある」


 白杖が円を描いた。炎と風が渦を巻き、レオンハルトの全身を包み込む。


「火よ烈しく燃え盛れ、風よ渦を巻き上げよ。天を焦がす煉獄(れんごく)螺旋(らせん)となりて——螺旋炎獄(らせんえんごく)!」


 レオンハルトの最強の火属性魔法。火と風を極限まで圧縮した巨大な炎の渦が、天井に届くほどの高さで巻き上がり、そのすべてがエルネストに向かって襲いかかった。


 ハーシュ教官が防護結界を増強する。エルザ教授が戦闘不能の判定を下す準備をする。


 だが——エルネストは動かなかった。


 火盾を張る魔力はもうない。修正版の炎弾をもう一発撃つ魔力も、ほぼない。


 残っているのは、E判定の魔力の最後の一滴。


 通常なら、ここで降参するのが正解だ。螺旋炎獄の直撃を受ければ、重度の火傷は免れない。死ぬことはないだろうが、数週間は動けなくなる。


 だがエルネストの脳は、降参の選択肢を処理する前に、別の計算を走らせていた。


(螺旋炎獄の構造——火と風の複合。渦巻き構造。中心部は高圧高温だが、渦の「目」に相当する部分は——)


 台風の目。


 渦巻き構造の中心には、気圧差によって生まれる静穏な空間がある。気象学的に当然の帰結であり、魔法でも同じ原理が適用されるはずだ。螺旋炎獄の中心にも、炎の及ばない極小の「目」がある。


 問題は、そこに人間が入れるほどの空間があるかどうかだ。

 通常ならありえない。だが——


(渦の中心を「広げる」ことができたら。風属性の制御が不要でも、渦の構造そのものに干渉できれば——)


 エルネストの目が開いた。


 残った魔力で、炎弾でも火盾でもない、全く別の魔法を唱える。


 それは攻撃でも防御でもなかった。


散れ(・・)風よ、離れよ(・・・)渦の中心より、(くう)成したれ(・・・・)


 風属性の、ごく微弱な魔法。E判定の魔力の残りかすで放った、風の制御——いや、風の「分散」。渦巻きの中心に向けて、僅かな風を逆方向に送り込み、渦の目を広げる。


 それ自体はほとんど無力な魔法だ。だが、完了相の修正を加えたことで——風は「すでに散った」状態として世界に宣言された。


 螺旋炎獄の渦の中心が、ほんの一瞬——直径一メートルほどに拡大した。


 エルネストはその空隙に向かって、身を投げ出した。


 炎の壁が左右を通り過ぎる。肌が焼けるような熱気。髪の先端がチリチリと焦げる。制服の袖が煙を上げる。


 だが——直撃はしていない。


 渦の目を抜けたエルネストが、レオンハルトの「後ろ」に飛び出した。


 レオンハルトが振り返る。碧眼が驚愕に見開かれている。


 エルネストは振り返りざまに、掌を突き出した。


 残った魔力はゼロに等しい。修正版の炎弾を撃つ力はとうに残っていない。


 だがその手の平から——直径五センチほどの、小さな白い火球が生まれた。


 通常の炎弾の十分の一以下の大きさ。威力だけなら、蝋燭の火を遠くに飛ばす程度のもの。


 だがそれは文法修正版だ。完了相で「すでに燃えた」と宣言された、因果が確定した炎。


 小さな火球が、レオンハルトの白杖を弾き飛ばした。


 カラン、と乾いた音を立てて、象牙の杖が石畳に転がる。


 闘技場が凍りついた。


 立っているのは二人。エルネストは満身創痍で、左腕に火傷、制服は焦げだらけ、魔力はほぼ枯渇。レオンハルトは軽傷だが、杖を失い、攻撃態勢が崩れている。


 数秒間の静寂。


 エルザ教授が二人の状態を見極めようとしていた。戦闘続行か、中断か。


 レオンハルトが——静かに、右手を上げた。


「降参する」


 その一言が、闘技場に響き渡った。


 爆発的な騒動が起きた。


「レオンハルトが降参した!?」

「嘘だろ! B判定がE判定に負けた!?」

「いや待て、レオンハルトはまだ戦えたはずだ。杖を拾えば——」

「でも降参は降参だ。決闘裁定の結果として——」


 千人の観客が、信じられないものを見た顔で席を立ち、叫び、囁き、混乱していた。


 エルネストは——その場に膝をついた。立っていられなかった。魔力の枯渇が全身を鉛のように重くしている。


 レオンハルトがゆっくりと杖を拾い上げ、エルネストの前に歩み寄った。


 見下ろす碧眼には、敗北の屈辱はなかった。


「なぜ降参を」


 エルネストが掠れた声で聞いた。


 レオンハルトは一瞬、夕陽に照らされた闘技場を見回した。


「続ける理由がないからだ。俺が知りたかったことは、すべて分かった」


 レオンハルトはエルネストに背を向けて歩き出した。数歩進んだところで、肩越しに振り返る。


「お前の呪文——文法修正か。あれは、俺にも使えるものなのか?」


 エルネストは膝をついたまま、かすかに笑った。


「理論を理解すれば——誰にでも使える。魔力の大小は関係ない」


 レオンハルトは碧眼を細め、何かを噛み締めるように頷くと、そのまま闘技場を出て行った。


 エルネストは石畳の冷たさを膝で感じながら、ぼんやりと空を見上げた。


 青い空。白い雲。午後の陽光。

 決闘裁定は——エルネスト・ラングの勝利で終わった。


 E判定が、B判定に勝った。


 この結果は、明日の朝には学院中に伝わるだろう。いや、おそらく今夜中に王都全体に広まる。千人の目撃者がいるのだ。


 エルネストの口の端が、力なく歪んだ。


(しまった。目立つつもりはなかったのに)


 言語学者としての探究心が理性に勝った結果が、これだ。

 前世でも、学会で異端的な論文を発表して大炎上したことがあった。あの時も「目立つつもりはなかった」と言い訳していた。


 変わらない。何一つ変わらない。


 医療班が駆け寄ってきて、エルネストの左腕の火傷を手当てし始めた。回復魔法の温かい光が傷口を包む。


 観客席の騒動はまだ収まらない。ハーシュ教官がメガホン代わりの拡声魔法で退場を促しているが、学生たちは興奮して席を動こうとしない。


 そんな騒乱の中、観客席の最上段に一人の老人が立っていた。灰色のローブに身を包み、長い白髭を蓄えた巨躯の男。


 学院長にして王国最高魔導士の一人——ゲルハルト・アイゼン・・・・・・・・・・・


 老魔導士の目は、闘技場の中央で膝をつくエルネストに向けられていた。穏やかな表情の下に、感情を読ませない深い闇がある。


「……呪文改変」


 ゲルハルトは誰にも聞こえない声で呟いた。


「千年の眠りが、揺らぐかもしれんな」


 老魔導士は観客席を立ち、誰にも気づかれぬまま闘技場を後にした。


 彼の足は、学院の地下へと向かっていた。


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