第4話:灼眼のレオンハルト
レオンハルト・フラムは、退屈していた。
正確に言えば、王立魔法学院に入学して以来ずっと退屈していた。だがここ数日、その退屈に亀裂が入り始めている。
フラム侯爵家の嫡男として生まれた瞬間から、レオンハルトの人生には「期待」が張り付いていた。
フラム家は三代にわたって宮廷魔導騎士団の幹部を輩出する名門であり、火属性魔法の名家として知られている。レオンハルトの父はA判定、祖父はS判定。一族の男子は例外なく王国最高峰の魔力を持ち、王宮と軍部に人脈を張り巡らせてきた。
レオンハルト自身の魔力はB判定。名門としてはやや見劣りする数値だが、それでも同年代では突出した実力者であり、火属性の精密な制御力と戦闘センスは教官たちからも高く評価されていた。
だが父はB判定を「まだ足りない」と言った。
「フラム家の嫡男がB判定では恥だ。修練を怠るな。騎士団入りまでにA判定に到達しなければ、弟に家督を譲ることも考えねばならん」
七歳の時から続く訓練の日々。炎を操る技術を磨き、火と風の複合魔法を開発し、同年代のあらゆる対戦相手を打ち倒してきた。
B判定でありながら、実戦においてはA判定の上級生にすら勝利する。フラム家の名に恥じない成果を上げ続けることが、レオンハルトの生活のすべてだった。
そしてそのすべてが、退屈だった。
勝って当然の相手に勝つ。強くなって当然の環境で強くなる。期待に応えて当然の立場で、期待に応え続ける。
そこに驚きはなく、発見はなく、自分の中の「何か」が揺さぶられる瞬間がない。
退屈は、レオンハルトにとって最大の敵だった。
だから——訓練場の炭化した支柱を見たとき、久しぶりに血が沸いた。
* * *
決闘の前日の夜。
レオンハルトはフラム侯爵家の学院寮——一般学生の四倍の広さがある特別個室で、白杖を手入れしながら思考していた。
杖は純白の象牙材で作られた家伝の品で、火属性の魔力伝導率が極めて高い。この杖を握ると、レオンハルトの火魔法は通常の一・三倍の出力を発揮する。
だが明日の決闘に、杖の出力など関係ない。相手はE判定の落ちこぼれだ。
問題はそこではない。
(エルネスト・ラング。あの男は何をやった)
訓練場の支柱。あの丸太は魔法耐性のある特殊な木材で作られており、A判定の火球でも表面を焦がす程度のはずだ。それが、芯まで完全に炭化していた。
鑑定班の調査結果は、レオンハルトの推測を裏付けた。残留魔力はE判定の炎弾一発分。つまり、「弱い魔法で、ありえない破壊をもたらした」。
通常、これは不可能だ。魔力量と威力は正比例する——それがこの世界の魔法の大原則であり、レオンハルトが幼い頃から叩き込まれてきた常識だ。
だからこそ、面白い。
常識を壊す何かが、あの場所で起きた。そしてその何かを引き起こしたのが、E判定の無名の学生だという事実が——レオンハルトの退屈を、初めて吹き飛ばした。
食堂でのやり取りを思い出す。
エルネスト・ラングは、否定しなかった。弁解も動揺もなく、ただ「E判定の魔力では不可能でしょう」と事実を述べただけだった。嘘をついている目ではなかった。余裕があったわけでもない。あれは——自分が何をしたかを正確に理解している人間の目だった。
何かを知っている。何かを発見した。そしてそれを、あの弱々しい炎弾の裏に隠し持っている。
(鑑定班の結果を待ってもよかった。だが、それでは面白くない)
鑑定班が犯人を特定すれば、ラングは器物損壊と呪文改変の罪で停学処分だ。それで終わる。ラングが何をやったのかは、調査委員会の非公開報告書に埋もれて終わる。
レオンハルトはそれが嫌だった。
あの男が何を持っているのか——自分の目で見たい。自分の火で試したい。
決闘裁定を申し立てたのは、正義感からでも名門の義務感からでもない。純粋な好奇心と、強者が弱者を試す——いや、未知の何かに出会いたいという、切実な欲求からだった。
「坊ちゃま、お茶をお持ちしました」
ドアの向こうから、従者の声が聞こえた。フラム家は学院寮にも専属の従者を一人つけている。
「いらん。置いておけ」
「かしこまりました。……明日の決闘について、お父上からお手紙が届いております」
「読まん。捨てろ」
従者が黙って立ち去る気配がした。
父からの手紙。おそらく「E判定の下級貴族を相手に決闘とは何事だ。フラム家の名に泥を塗るつもりか」とでも書いてあるのだろう。あるいは「さっさと終わらせろ。くだらない事に時間を費やすな」か。
どちらにしても、読む価値はない。
レオンハルトは白杖の手入れを終え、窓辺に立った。
星空を見上げる。明日の天気は晴れだ。闘技場は屋外半露天型だから、天候は戦闘に影響する。もっとも、E判定の相手に天候を気にする必要はないのだが。
(三秒で終わらせることもできる。だが——それでは意味がない)
レオンハルトの中で、矛盾した感情がせめぎ合っていた。
一方では、フラム家の嫡男としての矜持が「格下の相手に手間取るな、一撃で叩き潰せ」と囁く。
もう一方では、退屈に飢えた本能が「あの男の切り札を引き出せ。全力を見届けろ」と叫んでいる。
どちらを選ぶか。
レオンハルトは目を閉じ、数秒間だけ考えた。
そして——目を開いた時、碧眼には決意の光が宿っていた。
(全力で行く。最初から。手加減も、様子見もしない。ラングにありえない力があるなら、俺の全力の前で証明してみせろ。それができないなら、一秒で沈め)
矛盾ではない。全力を出すことが、相手の全力を引き出す最も確実な方法だ。
白杖を握り直す。象牙の表面が、主人の魔力に反応して微かに赤く発光した。
* * *
同じ頃。
学院の教官棟、グレン・ハーシュ教官の執務室で、小さな会議が開かれていた。
「フラム侯爵子息とラング家の三男の決闘裁定。明日の第三鐘、中央闘技場にて」
ハーシュ教官が書類を読み上げる。向かいのソファに座っているのは、基礎魔法学の|エルザ・ヴァイス《・・・・》教授。白髪交じりの初老の女性で、穏やかな表情の奥に鋭い観察眼を隠している。
「危険性の評価は」
「B判定対E判定だ。通常の条件であれば、危険性は低い。レオンハルトが手を抜かなくても、ラングの火盾は一撃で砕ける。戦闘不能の判定は早めに出す」
ハーシュは書類を閉じ、腕を組んだ。
「だが」
「だが、ですか」
「あの支柱の件がある。ラングが本当に犯人なら——あの火力を決闘の場で使う可能性がある。その場合、レオンハルトの安全も考慮しなければならない」
エルザは静かに頷いた。
「鑑定班の最終報告は」
「明後日の予定だ。決闘の方が先に来てしまった。フラム侯爵子息は待てなかったらしい」
「若いですわね」
エルザの言葉には、批判よりも苦笑に近い響きがあった。
「決闘審判には私が入ります。ハーシュ教官には防護結界の管理をお願いしたい」
「了解した。観客席の安全も含めて、三重の防護結界を展開する。……念のためな」
ハーシュの「念のため」という言葉の裏には、教官として長年の間に培った直感があった。
E判定の学生に、あの破壊は不可能だ。だが不可能なことが起きた。
ということは、明日の決闘でも——「不可能なこと」が起きる可能性がある。
「一つ、気になることがあります」
エルザが言った。
「何だ」
「ラング家の三男——エルネスト。私の基礎魔法学の講義を取っています。成績は下位ですが……彼の質問は、いつも少し変わっていました」
「変わっている、とは」
「他の学生は『この呪文はどう唱えるのか』と聞く。でもエルネストは『この呪文はなぜこの語順なのか』と聞くのです。呪文の暗記ではなく、呪文の構造に興味がある。そういう学生は、正直に言って初めてです」
ハーシュは眉を上げた。
「呪文の構造? 呪文は暗記するものだ。構造を論じても意味はないだろう」
「ええ、私もそう答えました。でも——もし、意味があるのだとしたら?」
エルザの問いかけに、ハーシュは答えなかった。
二人の教官は、明日の決闘の準備について実務的な打ち合わせに移った。だがエルザの脳裏には、講義中のエルネストの姿がちらついていた。
最後列の席で頬杖をつき、教授の詠唱を聞きながら、ノートに何かをびっしり書き込んでいた青年。
あの眼は、魔法を使おうとする者の目ではなかった。
魔法を理解しようとする者の目だった。
* * *
決闘当日の朝が来た。
エルネストは日の出と同時に目を覚ました。
いつもの天井の染み。いつもの石壁。窓の外には雲一つない青空が広がっている。
身体の状態を確認する。魔力は満タン——E判定なりの満タンだが。体調は悪くない。手は震えていない。心臓は普段より速いが、パニックにはなっていない。
制服に着替え、鏡の前に立った。
鏡に映る自分を見る。痩せた体躯。研究者特有の、やや陰気な顔立ち。目だけが鋭い。
この身体で、名門の天才魔導士と戦う。客観的に見て、滑稽な絵図だ。
「それでも——」
エルネストは鏡に向かって、呟いた。
「文法は、魔力判定を超える。今日、それを証明する」
傲慢な宣言だった。根拠は、たった一度の実験結果と、検証すらしていない理論的推定だけだ。
だが、前世で学んだ最も重要なことの一つは、仮説を立てたら検証しなければならない、ということだった。検証なき仮説は空論であり、空論からは何も生まれない。
部屋を出る前に、ノートの最後のページを見た。
『決闘勝利後の課題一:ティア・ノーヴァシルドの詠唱分析。水属性呪文の音声学的・文法的解析。暴発原因の特定と矯正案の設計』
昨日自分が書いた一文。「決闘勝利後の」。
エルネストは小さく笑い、ノートを閉じた。
ドアを開ける。廊下には朝の光が差し込んでいる。
寮を出て、食堂に向かう。今日は麦粥をちゃんと食べよう。エネルギーは必要だ。
食堂に着くと、カミルが心配そうな顔で待っていた。
「おはよう、エルネスト。……大丈夫か?」
「おはよう。大丈夫だ。朝飯を食べに来た」
「食欲あるのか。すごいな」
「腹が減っては戦はできない。どこの世界でも同じだ」
どこの世界でも。
自分で言って、可笑しくなった。実際にどこの世界でもそうだった。
麦粥を完食し、食堂を出た。午前の講義は免除されている。決闘裁定の当日は、当事者双方に準備時間が与えられるのだ。
エルネストは寮の部屋に戻り、午後三時の第三鐘が鳴るまでの時間を、ベッドの上で過ごした。
呪文を脳内で反復する。文法構造を組み立て、解体し、組み直す。発声のタイミング、呼吸のリズム、足の位置。
攻撃の修正版炎弾。防御の修正版火盾。語順最適化による発動速度の短縮。
三枚の手札。
二発以内で決着をつける。
第三鐘が鳴った。
エルネストは立ち上がり、部屋を出た。
中央闘技場に向かう道の途中から、人の流れが合流してきた。学生だけではない。教官、学院職員、なぜか街の住民まで混じっている。決闘裁定は公開行事であり、入場は自由だ。
闘技場の入場口が見えた。石造りの巨大なアーチの下に、二つの控室がある。一方はフラム侯爵家の紋章が掲げられ、もう一方は何の装飾もない素朴な扉だ。
エルネストは素朴な方の扉を開け、控室に入った。
石の壁に囲まれた小さな部屋。木のベンチが一つ。水差しが置かれたテーブルが一つ。
ここで開始の合図を待つ。
ベンチに座り、両手を膝の上に置いた。手は乾いている。
控室の外から、観客席が埋まっていく騒がしさが聞こえてくる。千五百人の闘技場が、どれだけ埋まるのか。E判定とB判定の決闘など、普通なら見る価値もないはずだが——訓練場の一件が好奇心を煽ったのだろう。
(いよいよだ)
エルネストは目を閉じた。
前世の記憶。学会発表の前に、講演会場の舞台袖で感じた緊張。あの時と同じだ。発表する内容が異端的であればあるほど、緊張と興奮が高まる。
今日の「発表」は、論文ではなく魔法だ。
聴衆は研究者ではなく、魔導士と学生だ。
だが本質は変わらない。自分の発見を、世界に向けて示す。
開始の鐘が、一度だけ澄んだ音で鳴った。
エルネストは目を開き、立ち上がった。
控室の扉を押し開ける。
午後の陽光が目を射た。
中央闘技場の白い石畳が広がり、すり鉢状の観客席には——想像を超える数の人間が詰めかけていた。ざっと見て、千人は下らない。空席の方が少ない。
そしてその歓声——いや、ざわめきの中を、エルネストは競技場の中央に向かって歩き出した。
反対側の入場口から、レオンハルトが姿を現す。
深紅のローブがなびき、白杖が陽光を反射する。碧眼がまっすぐにエルネストを捉えている。
その表情には、嘲りも侮りもなかった。
期待があった。
二人の距離が、闘技場の中央で二十メートルまで縮まった。
審判のエルザ教授が、二人の間に立つ。
「決闘裁定。告発者・レオンハルト・フラム。被告発者・エルネスト・ラング。開始の合図とともに戦闘を開始し、降参または戦闘不能をもって決着とする。制限時間は十五分。両者、準備はよいか」
レオンハルトが白杖を構えた。「いつでも」
エルネストは杖を持っていなかった。素手だ。杖は魔力伝導の効率を上げる道具だが、文法修正で効率を最大化するなら、杖による追加の効率化は誤差の範囲だと判断していた。
観客席のどこかで、誰かが笑った。「杖もなしかよ」と。
エルネストは構えた。両手を前に出し、掌を広げる。不格好な構え。教本にはない、自己流の——いや、前世の言語学者が「最も集中しやすい姿勢」から逆算して作った、彼だけの構えだった。
「準備はできています」
エルザ教授が右手を高く上げた。
闘技場が静まり返る。千人の息を呑む音が、石壁に反響して消えていく。
「——始め!」
エルザの手が振り下ろされた瞬間。
エルネストの口が開いた。




