表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔法が全く使えない「言語学者」、異世界の古代語を解読したら全ての呪文の"誤訳"に気づいてしまった  作者: なは
序章:壊れた呪文

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/11

第1話:もう一つの揺りかご

 最初の記憶は、光だった。


 白い光。視界を塗りつぶすような、圧倒的な白。そしてその光の中に、なぜか「文字」が浮かんでいるような気がした。

 文字の形は分からない。だが、それが文字であるということだけは、確かだった。


 生まれたばかりの赤子の目に映る光。産声。見知らぬ天井。見知らぬ顔。見知らぬ言葉。


 だがその「見知らぬ言葉」を聞いた瞬間、赤子の脳の奥で何かが微かに震えた。


 言葉だ。

 これは、言葉だ。


 エルネスト・ラングとして生まれた赤子は、その日、この世界で最初に「言語」を認識した人間の一人になった。

 もっとも、その意味を理解するには、あまりにも長い時間が必要だったが。


     * * *


 ラング家は、王国東部の辺境に領地を持つ下級貴族だった。


 「貴族」とは名ばかりで、実態は領地の税収が細る一方の零落した家柄だ。館は祖父の代に建てられた石造りの屋敷で、壁のあちこちに修繕の跡が目立ち、使用人は料理番と馬丁の二人しかいない。


 当主である父ヘルマン・ラングは寡黙な男で、元は軍の下級士官だった。引退後に先代の跡を継いだが、経営の才はなく、年々領地の収入は目減りしている。

 母マルタは商家の出身で、家計の帳簿を切り盛りしながら三人の息子を育てていた。


 長男アルベルト。質実剛健で朴訥。父に似て軍人向きの気質。

 次男フリッツ。社交的で要領がいい。母譲りの商才がある。

 そして三男エルネスト。


 三男は、生まれた時から妙な子だった。


 泣かないのだ。


 赤子は腹が減れば泣き、おむつが濡れれば泣き、眠ければ泣くものだが、エルネストはほとんど泣かなかった。代わりに、じっと周囲を見つめていた。天井の木目を。窓から差し込む光を。そして何より——人の口元を。


 誰かが話すたびに、赤子の目がそちらを向いた。


「この子は耳がいいのかね。声のする方をじっと見るんだよ」


 母マルタがそう言うと、産婆は「賢い子だ」と笑った。


 だがエルネストが見つめていたのは、話し手の顔ではなかった。唇の動きだった。

 唇がどう動いて、舌がどう位置を変えて、息がどう流れるか。調音器官の運動パターン。音声が生成されるメカニズム。


 赤子には、そんな分析を言語化する能力はない。だが脳の奥底で何かが反応していた。前の世界から持ち越された何かが、この世界の「音」に反応し、記録していた。


 最初の言葉を発したのは、八ヶ月の時だった。


 母親が「マルタ」と名乗るのを何百回も聞いた後、その音を完璧に再現してみせたのだ。「マルタ」と。赤子の声帯と口腔では完全な発音は不可能だったが、音素の配列だけは正確だった。


 普通の赤子の最初の言葉は、「ママ」か「パパ」のような単純な反復音節だ。二音節の固有名詞を正確に発音する八ヶ月児は、この世界でも前の世界でも珍しい。


 一歳半で文を組み立て始めた。「水、ほしい」ではなく「水が欲しい」と、格助詞を正確に使って。

 二歳で大人同士の会話に混ざり、三歳の頃には父の書斎にある本を一人で読んでいた。文字は教わっていない。会話の中で聞いた単語と、本の中の文字の対応関係を独力で解析し、この世界の表記系を習得したのだ。


「エルネストは天才なのではないか」


 父ヘルマンが珍しく感情を見せてそう言ったのは、三歳の誕生日の日だった。


 だがエルネストは天才ではなかった。正確に言えば、天才なのは「この世界のエルネスト」ではなく、「前の世界の誰か」だった。


     * * *


 夢を見ていた。


 幼子がベッドの中で見る夢は、普通なら色彩豊かで脈絡のないものだ。だがエルネストの夢は違った。


 暗い部屋。四角い光を放つ薄い板。板の表面に、見たことのない文字がびっしりと並んでいる。

 文字は横に流れていて、左から右へ読むものらしい。形は角ばったものと丸いものが混在している。一つ一つの文字は小さいが、恐ろしいほどの量が板の上に集まっている。


 その文字を読んでいる「自分」がいる。

 だがその「自分」は、今の自分ではない。もっと大きな体。もっと細い指。眼鏡をかけている。指先でカチカチと何かを叩くと、板の上の文字が変わる。


 それは論文だった。言語学の論文。


 夢の中の「自分」は、その論文を書いている最中だった。「普遍文法の構造依存性に関する統語的分析」——タイトルが読めた。意味も分かった。だが三歳のエルネストには、その知識を使う方法が分からなかった。


 目が覚める。石造りの天井。薄暗い明け方の光。


 夢の内容はすぐにぼやけて消えていく。だが、一つだけ残る感覚があった。


 文字。言葉。言語。

 それらに対する、理由を説明できない、圧倒的な親しみ。


(僕は……「これ」を知っている)


 三歳児は、まだそれ以上を言語化できなかった。


     * * *


 四歳になると、エルネストの言語能力は家族の「天才児」という理解を超え始めた。


 使用人のベーテが話す東部方言と、母マルタが話す王都標準語の違いを、四歳のエルネストは正確に指摘した。


「ベーテの『(みず)』の発音は、お母さんの発音と違うよ。ベーテは最初の音が奥の方から出てるけど、お母さんは前の方から出してる」


 調音位置の差異。声道の前方と後方で作られる音の違い。


 方言学的に正しい観察だった。だがそれを四歳児が自発的に行っているという事実に、マルタは驚くよりも薄気味悪さを覚えた。


「この子は……普通の子じゃないのかもしれない」


 マルタの不安は杞憂ではなかった。エルネストは普通の子ではなかった。だが、その理由を説明するすべはなかった。前世の記憶を口にすれば狂人扱いされる。それは四歳のエルネストにも分かっていた。


 だから黙っていた。言葉の分析は続けたが、その結果を誰にも見せなかった。


 五歳。六歳。七歳。


 ラング家の三男は「早熟だが変わった子」という評価に落ち着いた。天才と呼ぶには実用的な成果がなく、凡人と呼ぶには知識の深さが異常。友達は少なく、一人で本を読んでいるのが好きで、たまに使用人の言葉遣いを指摘して煙たがられる。


 夢は相変わらず見ていた。


 断片的で、脈絡がない。だが少しずつ、パターンが見えてきた。


 夢の中の「自分」は、いつも文字に囲まれている。本。画面。黒板。ノート。そしてその文字の言語は、この世界の言語ではない。形も音も文法も異なる、全く別の言語体系。


 六歳の時、夢の中で初めて「自分の名前」を聞いた。


 音無言葉(おとなしことは)


 見知らぬ名前。見知らぬ音。だが——それが自分であるという確信だけは、揺るがなかった。


 エルネストは目を覚まし、暗い部屋の中でその名前を口に出してみた。


「オトナシ……コトハ」


 この世界の言語にはない音の組み合わせ。舌の使い方も、母音の配列も異なる。だが、不思議なくらい自然に発音できた。


 自分は「エルネスト・ラング」だ。ラング家の三男で、辺境の小さな屋敷に住む、下級貴族の子供だ。


 だが同時に——自分はかつて「音無言葉」という別の名前を持っていた。別の世界で、別の人生を生きていた。


 六歳のエルネストは、その事実をまだ完全には受け入れられなかった。夢は夢だ。前世の記憶なのか、想像力の産物なのか、区別がつかない。


 だが一つだけ確かなことがあった。


 「音無言葉」が愛していたもの——言語——を、「エルネスト・ラング」もまた愛している。


 言葉の響き。文法の構造。音の生成。語の意味。


 この世界で話されている言語は、前世の世界の言語とは全く異なるものだった。だがその異質さこそが、エルネストの中の「言語学者」を刺激し続けていた。


 知らない言語を目の前にしたとき、言語学者がやるべきことは一つだ。

 分析する。規則を見つける。体系を解明する。


 エルネストは七歳になるまでに、この世界の現代語の音韻体系をほぼ独力で分析していた。

 母音は六種類。子音は十八種類。声調はない。基本語順はSVO。格標識は後置型。名詞には性と数の変化がある。動詞の活用は規則変化と不規則変化の二パターン。


 これらの分析結果は、父の書斎から拝借したノートにびっしりと書き込まれていた。七歳児の丸い字で書かれた、この世界で最初の——そしておそらく唯一の——言語学的記述。


 だが、エルネストはこのノートの存在を誰にも見せなかった。


 見せたところで、誰も理解しないと分かっていたからだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ