第1話 森閑の魔術
「九条蓮――貴様の研究は、人類への冒涜だ」
床に押し倒された頬に、冷たいタイルの感触が走った。
白衣の男たち――研究倫理機関の監査官たちが、僕を取り囲む。
蛍光灯が耳障りな音を立てて震える。
揮発した薬品の匂いが喉を焼き、目の奥が痛む。
――だが、僕の視線はただ一つだけを捉えていた。
幾重もの結界と遮断層に囲まれた観測空間。
その中心で、“それ”は青白く、空間そのものを歪ませながら存在していた。
液体でも気体でもない。
炎でも雷でもない。
ただ、世界の理が、そこだけ捻じ曲げられている。
そうとしか表現できない、異常な在り方。
理論上、成立してはならない反応。
それでも――確かに“在る”もの。
僕はそれを、『万能物質(Λ)』と名付けた。
「実験は即刻中止! 装置は破棄する! これ以上の――」
言葉は、途中で途切れた。
次の瞬間、視界が白に塗り潰される。
爆音はない。
熱も、痛みも、衝撃もない。
ただ――世界の位相が、静かにずれた。
僕の意識だけが、肉体から剥がれ落ちていく。
糸が切れるように、重力の束縛が消えていく。
恐怖はない。
それどころか――陶酔に近い感覚があった。
観測空間の中心で、何かが臨界に近づいているのを感じた。
その刹那、僕は“見た”。
バラバラだった数式が一本の線となり、
矛盾していた理論が、音を立てて噛み合う決定的瞬間。
(――これで、完成する)
世界の扉が、静かに開いた。
だが――同時に、そう直感してしまった。
僕はまだ――その“答え”を知ることができない、と。
理論の果て。
実験の結末。
この物質が、世界にもたらす未来。
そのすべてを見届ける前に、
僕の意識は、観測から切り離されていく。
最後に、空間が一度だけ大きく揺らいだ。
それが、九条蓮の最期の記憶だった。
*
次に目を開けたとき、僕は泣いていた。
正確には――泣くことしかできない、赤子になっていた。
見上げた天井は、見知らぬ宮殿の装飾。
月光が金細工を照らし、淡く揺らめく。
そして――空気そのものが震えていた。
光でも霧でもない。
だが確かに存在し、世界を満たす“何か”。
僕の呼吸に合わせて、微かに波打つ。
乳母が僕に触れた瞬間――燭台の炎が一斉に揺れた。
風はない。だが炎は、まるで僕を恐れるように歪んだ。
「見てください、公爵様! レン様がお立ちに……!」
生後半年。立つはずのない赤子が、よろめきながら足をつく。
僕はアステリア公爵家の嫡男として転生していた。
だが、そんなことはどうでもいい。
僕の関心は――この世界を満たすエネルギーにあった。
*
五歳。運命の日。
聖堂の中央に鎮座する巨大な水晶――『魔力測定儀』。
そこに手を触れ、どれだけ“それ”を引き込めるかで価値が決まる。
父――アステリア公爵は、緊張を押し殺して言った。
「レン……手を置きなさい」
神官の祈り。家臣の視線。
息を呑む静寂。
僕は水晶に触れた。
――何も起きない。
一秒。二秒。三秒。
水晶は、ただ沈黙している。
「……馬鹿な」
父の顔が青ざめる。
ざわめきが広がり、やがて嘲笑へと変わった。
「魔力ゼロ……?」
「アステリアの嫡男が……」
「廃嫡だな……」
僕の魂は――
この世界を満たすマナが、どうしても“馴染まなかった”。
水に溶けるはずのものが、決して混ざらない。
触れれば広がるはずの場が、僕の内側だけを避けて流れていく。
理由は分からない。
僕は最初から、マナと噛み合っていなかった。
*
その夜。月明かりの庭。
僕は厨房から持ち出した薬品と、自作の蒸留器を並べた。
足元に転がる、白く脆い石を拾う。
この世界ではただの建材だが――
僕の目には、反応式の一部にしか見えない。
炭酸カルシウム。
条件さえ整えば、性質はいくらでも裏切ってくれる。
化学を応用すれば、マナを扱えなくとも、
この世界の反応条件そのものを歪めることはできるはずだ。
魔法のような派手さはない。
だが――結果だけを見れば、奇跡と区別はつかない。
祈りは不要。詠唱も不要。
必要なのは理屈だけ。
――シュン。
微かな音。
次の瞬間、巨石は爆ぜることなく、光ることもなく、
内側から崩れ落ちるように、さらさらとした砂へと変わった。
「……なんだ、今のは」
振り向くと、父が立っていた。
彼は砂と化した石を見て、膝をつく。
「魔力の気配が……まったく、なかった……」
高度な魔導師ほど魔力の気配をコントロールできるが、
今のは“出力ゼロ”のまま、結果だけが生まれた。
父の声は震えていた。
「お前は……魔力がないのではないのか?」
やがて、絞り出すように言う。
「音もなく、光もなく、予兆すらない……
これこそが、魔導の極致――『森閑の魔術』に違いない……!」
僕は小さな手を見つめた。
(違う。これは魔法じゃない)
僕の知っている理屈に、一番近い。
だが、この世界がそれを“魔術”と呼ぶなら、構わない。
魔法という名の奇跡に溺れた世界で、
僕は“魔術師”として生きてみせる。
この世界という名の――巨大な実験場の中で。
――そして僕は、まだ知らなかった。
この力が、やがて世界そのものを敵に回すことを。




