帝国の黄金プリンと黒胡椒の罠 〜うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい〜
これは俺が古代ローマに似た異世界へと転生するよりずっと前、姉と過ごした思い出の一幕―――――
※
「……ない。俺の楽しみにしてたプリンがない!」
三月のとある平日。放課後のサッカー部で、文字通り泥だらけになるまでグラウンドを走り回った俺、川背匠を待っていたのは、安らぎではなく絶望だった。
汗ばんだ身体をシャワーで流し、渇いた喉と鳴り止まない腹をなだめるため、俺は帰宅するなり冷蔵庫の扉を勢いよく開けた。しかし、そこにあるはずの、昨日自分のお小遣いで買っておいた『なめらかプリン・ビッグサイズ』が、容器ごと、影も形も消え失せている。
「ワンッ!」
足元では、愛犬のミニチュアダックスフンド『きなこ』が、悪びれる様子もなく尻尾を振っている。心なしか、いつもより口の周りがツヤツヤと輝いている気がする。
まさか、きなこが食べたのか?
いや、あいつに冷蔵庫は開けられない。となると、容疑者はただ一人。
「あら匠。そんな市販の、卵の力も借りずに増粘多糖類で誤魔化した『黄色いスライム』がなくなったくらいで、文明の終わりみたいな顔をしないでちょうだい」
リビングのソファで優雅に読書をしていた姉、真綾が、眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせた。
俺には四歳上の姉ちゃんがいる。歴史オタクで、何かにつけて面倒なうんちくを語り出す厄介な性質を持っているが、その実、面倒見の良い頼れる中学三年生……と、普段なら思ってやれなくもないが、今は別だ。
対する俺は小学五年生。この四歳差という絶望的なヒエラルキーの壁に、俺は何度も涙を飲んできた。
「姉ちゃん! 俺のプリン、食べたでしょ! 一個一五〇円もしたんだぞ、あれ!」
「知りもしないし、興味もないわね……それより匠、あなたは一生、そんなプラスチックの墓標に閉じ込められた軟弱な甘味で満足するつもりなの?
それとも、かつて地中海を支配したローマ帝国の貴族たちが、栄華の極みにおいて独占していた『黄金の至宝』を食べてみたいとは思わない?」
真綾の言葉に、俺の怒りのボルテージがわずかに揺らいだ。
「……え、ローマ貴族の、黄金の至宝?」
「そうよ。当時の美食家アピキウスの料理書にも記された、砂糖なき時代の究極のデザート。現代のプリンとは次元が違う、濃厚で芳醇な帝国の味……
その名も『ティロパティナ』もしあなたが本気で『真の美食』を知りたいと言うなら、今ここで再現してあげなくもないけれど?」
真綾の妖しげな微笑みと、聞いたこともない贅沢な響き。受験生とは思えないほど余裕たっぷりな姉の態度に、俺の脳内からは消えた市販プリンの記憶が急速に霧散していく。
「……食べる! 俺、それ食べたい! 姉ちゃん、作って!」
「いい返事ね。じゃあ、まずは卵を十個ほど出してきなさい! 今日は特別に、姉ちゃんが手取り足取り『帝国の法』を教えてあげるから」
姉の甘言に乗せられ、匠はまんまと乗せられ、エプロンを締めてキッチンの前に立つのであった――
◇
「さあ、調理開始よ。まずはボウルに十個の『太陽』を落としなさい!」
真綾が指揮棒のように菜箸を振る。
卵を十個。冷蔵庫の在庫を半分以上も消費する暴挙だが、今の俺にはそれが「レギオン(ローマ軍団)」を召集する神聖な儀式のように思えていた。
「いい、匠。これが世界最古のカスタードプリン『ティロパティナ』の礎よ。ハチミツを贅沢に注ぎ込みなさい。それは豊穣の女神からの贈り物。黄金の液体が、卵という混沌に秩序をもたらすのよ!」
指示されるまま、巨大なハチミツの瓶を抱えてドロドロとボウルに流し込む。
牛乳を加え、いよいよ撹拌の工程に入った時、真綾が俺の背後に回り込んだ。
「ほら、エプロンの紐が緩んでいるわ。戦場で足元をすくわれないように、私がしっかり縛っておいてあげる」
真綾の手が俺の腰を回り、背中で紐をキュッと結び直した。
その時、ふわりと姉ちゃんから石鹸の良い匂いがして、耳元で聞こえる彼女の吐息に、俺は思わず肩をすくませた。
珍しく優しい手つきと、その近すぎる距離に、心臓がトクンと跳ねる。
「……う、うん。ありがとう、姉ちゃん」
「ふふっ、顔が赤いじゃない。体温が上がれば、卵液の混ざりも良くなるわね。さあ匠、ここからが正念場よ。その泡立て器を、ローマのガレー船(軍船)を漕ぐ奴隷の櫂だと思いなさい! 手を止めることは帝国への反逆よ! 全力で漕ぎなさい(混ぜなさい)!」
俺は単純な感動と、姉ちゃんに褒められたい一心で、まさにガレー船の漕ぎ手の如く、ボウルの中を撹拌し続けた。
姉ちゃんは俺の隣で、ボウルの縁をそっと支えてくれている。
(受験勉強で忙しいはずの姉ちゃんが、俺のためにこんな本格的な料理を教えてくれるなんて……やっぱり俺のこと、部活の疲れを癒やして励まそうとしてくれてるんだな)
普段は変な命令ばかりしてくる暴君な姉ちゃんがなんだか、『綺麗で優しいお姉さん』に見えて、ついポーッとしてしまった⋯⋯
卵液が完全に均一になり、美しいクリーム色に染まった頃、真綾がキッチンの蒸し器を指し示した。
「見て、あの蒸気を。あれは古代の科学者ヘロンが夢見た動力の萌芽。あの蒸し器こそが、ティロパティナという黄金を誕生させるための『凱旋門』よ。さあ、液を流し込み、門を閉じなさい!」
およそ三十分後。
蒸し器の蓋が開けられた瞬間、甘く濃厚な香りが爆発的にキッチンを満たした。
そこには、市販のプリンのような軟弱なプルプル感はない。どっしりと鎮座した、まさに『黄金の塊』が姿を現していた。
「仕上げよ、匠! 当時、金と同じ価値があったとされる『黒胡椒』を振りかけるの。これこそが帝国の正装、ティロパティナを完成させる最後の鍵よ!」
「えっ、コショウ!? プリンに……?」
「疑わないの。歴史を疑うことは、己の存在を否定することよ!」
真綾が容赦なくペッパーミルをガリガリと回し、黄金の表面に黒い粒を散らしていく。
おそるおそる、俺はスプーンを差し込んだ。
◇
「……うわ、重いっ!」
スプーンから伝わる手応えが、すでに市販のプリンとは別次元だ。
一口、口の中へ運ぶ。
「――っ! すごい……! ハチミツがめちゃくちゃ濃い! 喉にハチの群れが突っ込んできたみたいだ! そこに黒胡椒のピリッとした刺激がきて……なんて言うか、重装歩兵の軍団が舌の上をガシガシ進軍してくる感じだ!」
「ふふん、当然でしょ。それがパクス・ロマーナの栄華、歴史の重みというものよ」
真綾も満足げに頷き、自分の分を小皿に分けた。
「どう? 悪くないでしょう?」と、彼女はスプーンを咥えたまま、悪戯っぽく小首をかしげる。その仕草が、夕陽に照らされたキッチンの光の中で妙に大人びて見えて、俺は素直に頷いた。
「うん、すごいよ姉ちゃん! これ、お店に出せるレベルだよ!」
俺たちは、スパイシーで重厚な『帝国の味』を堪能し始めた。
……しかし。
半分も食べないうちに、俺の胃袋に異変が起きた。
「……っ、う。……重い。これ、想像以上に胃にくる……」
「そうね……。ハチミツと卵十個の凝縮体は、現代人のひ弱な消化器官には、少々重税が過ぎるかもしれないわね……」
美味い。確かに美味いのだが、一口一口が粘土を飲み込むように重い。
俺はたまらず麦茶をがぶ飲みし、胃をさすりながらシンクへと向かった。
そこで食器を片付けようとシンクの下のゴミ箱を開けた、その時だった。
ゴミ袋の一番上に、俺が探し求めていたはずの『なめらかプリン・ビッグサイズ』の空カップが、誇らしげに鎮座していた。
しかもその横には、きなこが口の周りをテカテカにしていた理由であろう、空になった『犬用ヤギミルク・ガム』のパッケージも捨てられている。
「……姉ちゃん。俺のプリン、やっぱり姉ちゃんが食べたんだろ。きなこにミルクのガムを与えて口止めして、俺にはこのヘビーな料理を作らせて、腹をパンパンにして誤魔化そうとしたな!?」
真綾は一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐさま窓の外、遠い夕焼け空へと瞳を固定した。
「……心外ね。それは、現代の軟弱なゼラチン固めと、偉大なる古代ローマの知恵を『比較検証』するための、崇高な犠牲よ。
犠牲なくして科学の進歩はないわ。おかげで今日のティロパティナは、より深みのある味(罪の味)になったと思わない?」
「思うわけないだろ! 一個一五〇円! 俺のお小遣い返せよ!」
「もう、いちいち細かい男ねぇ。…はい、これ」
真綾は呆れたように肩をすくめると、冷蔵庫の奥からもう一つ、見覚えのある容器を取り出した。
「特売だったから二個買っておいたのよ。私の分を食べちゃったから、匠のを『拝借』しただけ。……ほら、これがあんたの取り分よ」
ポン、と渡された冷たいプリン。
本来なら泣いて喜ぶはずの、喉越しの良い至宝だ。
しかし、俺は手の中の『なめらかプリン』と、今の自分の胃袋の惨状を天秤にかけ――顔を青くした。
「……うっ。……無理だ。入らない……」
卵十個と純粋なハチミツの暴力は、想像を絶していた。俺の胃の中は今、ローマ軍の重装歩兵によって完全に占拠され、一ミリの余地も残っていない。今ここでこの甘いプルプルを流し込んだら、間違いなく俺の腹の中でポエニ戦争が勃発する。
「……今の俺の胃袋には……ローマの重税が重すぎて……もう一兵たりとも……プリンを受け入れられない……」
「あら、情けない。せっかくの私の好意を無にするなんて」
真綾はニヤリと笑うと、俺の手からひょいとプリンを取り返した。
「じゃあ、これは私が明日の朝食に『再々検証』してあげるわ。感謝しなさい?」
「ワンッ!」
きなこが、明日の朝のミルクガムを期待して真綾の足元で尻尾を振る。
俺はソファに倒れ込み、「結局、姉ちゃんに全てを奪われただけじゃないか」という真実にようやく到達した。
だが、満腹すぎて怒る気力も湧かない。
夕闇の迫るリビングで、中学三年生の姉の悪戯なウインクと、口の中に残る黒胡椒のピリッとした刺激に、小学五年生の俺は完敗を認めるしかなかった。
キッチンのコンロがパチリと音を立てて冷えていく。
窓の外から春を告げる風が、少しだけ、ハチミツの匂いを運んでいった。
【お知らせ】
2月13日(金)から2月22(日)までの10日間、17時30分に毎日投稿します。
スケジュール
13金曜:武器物語28話
14土曜:うちの姉ちゃん〜バレンタイン編
15日曜:うちの姉ちゃん〜ローマのプリン編
16月曜:武器物語29話
17火曜:うちの姉ちゃん〜雪玉編
18水曜:武器物語30話
19木曜:うちの姉ちゃん〜『蜻蛉切』編
20金曜:武器物語31話
21土曜:うちの姉ちゃん〜猫の日前日譚
22日曜:武器物語・特別短編
ぜひ、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
本作をお読みいただきありがとうございます。
お楽しみ頂けましたら★★★★★評価お願いいたします。
今後も同シリーズにて短編を投稿いたしますので、ご愛読いただけましたら幸いです。
【匠の「その後」の物語はこちら!】
本作で匠が学んだ「無駄すぎる知識」が、異世界で最強の武器になる――!?
匠が古代ローマ風異世界に剣闘士として転生し、姉ちゃんの知識で成り上がる本編、『転生式異世界武器物語』も好評連載中です!
本編では実在した武器の“武器解説”、絵師様による“挿絵”付きの豪華な長編となっています。
ぜひ合わせてチェックしてみてください!
『転生式異世界武器物語』
https://ncode.syosetu.com/n3948lb/
※こちらのイラストにはAIを使用して製作しております。




