第8話/逃げる影
廃墟の奥、霧がさらに濃く立ち込める中、微細な足音を頼りに吉羽と渡辺は犯人を追っていた。瓦礫と倒木に遮られ、視界はわずか数メートルしかない。片瀬は後方で端末を操作し、蛇の目の解析をリアルタイムで送信している。
「……あそこだ!」吉羽が低く声を潜め、前方の影を指差す。
渡辺は短く息をつき、懐中電灯を照らす。「動くな……!」
しかし影は一瞬で視界から消えた。瓦礫の向こうへ走り去る音だけが、霧の奥に残る。
吉羽は咄嗟に地面の足跡を確認する。「……右に曲がった。渡辺、ついてきて!」
二人は瓦礫の間を低く進む。霧に足音がかき消され、距離感が掴めない。
「……遠くなった?」渡辺は息を荒げながら振り返る。「霧で見えない!」
吉羽は端末を取り出し、蛇の目に確認する。「……動きの軌跡は?」
「解析中。視界と瓦礫による遮蔽で追跡困難。過去の心理パターンから、犯人は視界を遮るルートを選択しています。」蛇の目の声は冷徹だ。
「……つまり、完全に逃げられた可能性もある。」渡辺は力なく吐息を漏らす。
吉羽は瓦礫に手をつき、深く息をつく。「……油断してはいけない。霧で見失っても、痕跡は残る。土の盛り方、瓦礫の動き、微細な足跡……全部、犯人心理を示すサインよ。」
片瀬が遠くから叫ぶ。「吉羽さん、渡辺さん、ここで立ち止まって! 端末で痕跡の軌跡を確認中です!」
吉羽は頷き、霧の中で耳を澄ます。微かに、瓦礫の下で何かが擦れる音が聞こえる。
「……あそこだ。」吉羽は指差すが、影は再び消え、霧に呑まれる。
渡辺は悔しそうに歯を噛む。「……どうやって追えばいいんだ?」
吉羽は低く声を潜め、冷静に分析する。「今は焦るな。痕跡を失ったわけじゃない。心理パターンと過去の動きから、必ず次の行動範囲を予測できる。」
蛇の目が冷たく解析を告げる。「追跡可能性は低下。霧と瓦礫による視界遮蔽で犯人は一時的に見失われました。しかし、過去の行動パターンを組み合わせれば、再接触の予測範囲を提示可能です。」
吉羽は静かに頷く。「……落ち着け。焦って無理に追えば、完全に振り切られる。痕跡と心理の先を読む。これが唯一の道。」
渡辺は深呼吸をして気持ちを落ち着ける。「……わかった。次の一手を読む。焦らず、確実に。」
霧の中、瓦礫の影に潜む犯人の痕跡は消えたが、心理と微細な手掛かりの線は途切れていなかった。吉羽と渡辺は見失った影を思い描きながら、冷静に分析を始める。犯人は逃げた。しかし、その背後に残る小さな痕跡が、次の接触への糸口を示している――。
科警研第二課の解析室。夜の静寂が深く室内を包む中、秋山慎一郎は椅子にもたれ、端末に表示される海外事件の資料を睨んでいた。蛇の目は淡い光を放つモニターの中で、冷徹に分析を進めている。
「……このアメリカでの事件、犯人はなぜ捕まったのか?」慎一郎は低くつぶやく。
蛇の目の声が静かに応答する。「解析開始。対象は1970年代後半、都市部アパートで発見された防腐処理遺体群。捕縛に至った経緯には複数の要因があります。」
慎一郎は眉をひそめ、資料をスクロールする。「要因……具体的には?」
「まず、犯行パターンの変化です。」蛇の目は正確に答える。「初期は微細な痕跡を残さず、計画的に死角を選んでいました。しかし、連続犯行が進む中で、心理的疲労や焦りにより痕跡の精度が低下しました。」
慎一郎は頷きながらメモを取る。「……心理的負荷が犯行精度に影響した、と。」
「正確です。」蛇の目は続ける。「さらに、偶発的な目撃者の出現も影響しました。犯人は自己中心的な計算の中で、人間の予期せぬ存在を見落としていました。」
「なるほど……計算外の変数だな。」慎一郎は椅子に深く腰掛け、端末の資料を睨む。「過去の行動は非常に計算高く、冷徹だった。だが、連続性が焦りを生み、誤算を誘った。」
蛇の目は微かに解析を続ける。「加えて、捜査当局の心理分析と行動予測が有効に機能しました。現場痕跡、防腐処理手法、移動パターンの微細な違いを組み合わせることで、犯人行動の予測範囲を縮小し、最終的に接触を実現しました。」
慎一郎は腕を組み、考え込む。「……つまり、完璧に見える犯人でも、心理の微細な揺らぎや環境の偶然で突破口は生まれる。ここが我々の捜査ポイントだな。」
蛇の目は冷徹に続ける。「さらに注目すべきは、捕縛に至るまでの犯人心理です。海外事件の犯人は、自らの行動が追跡されている可能性を察知する段階で、焦りと恐怖が混在しました。この心理状態が、逃走経路や痕跡の乱れを生みました。」
慎一郎は端末を操作し、過去の現場画像や資料を重ね合わせる。「……焦りの心理パターンか。逃げる際の無意識の行動に痕跡が残る。犯人は自分の冷徹さを過信してしまった。」
「正確です。」蛇の目は微かな光を点滅させる。「心理的な変化と環境要因の組み合わせが、最終的に犯人捕縛に至った要因です。」
慎一郎は椅子から立ち上がり、窓の外を見つめる。「……なるほど。今回の国内連鎖も同じ。犯人は計算高く、冷徹であるが、心理的負荷や偶発的要因は必ず存在する。そこを突くことが、我々の突破口になる。」
蛇の目が淡々と告げる。「過去の海外事件の解析は、次の現場予測や犯人心理の理解に直結します。完全な予測は不可能ですが、行動パターンと心理の微細な変化を照合すれば、接触の可能性は格段に向上します。」
慎一郎は深く息をつき、端末に映る国内の現場データに視線を戻す。「……吉羽たちは現場で追跡している。海外事件の経緯から学んだ心理解析と痕跡照合を活かせば、逃走中の犯人を追い詰められるはずだ。」
蛇の目は静かに応答する。「過去の影を追い、現場の痕跡を拾い上げる。これが、連鎖を止める唯一の方法です。」
慎一郎は窓の外の夜景を見つめながら、静かに呟いた。「……過去の影を見極め、未来の一手を読む。犯人を捕まえるための鍵は、心理の隙間と痕跡の微細な線にある。」
夜の静寂の中、解析室の冷たい光だけが、数か月にわたる連鎖殺人の背後に潜む犯人像を浮かび上がらせていた――。




