第15話/運び屋
夜の雨が、兵庫の港町のコンクリートを冷たく叩いていた。パトランプの赤と青が濡れたアスファルトに滲み、倉庫の外壁を妖しく染める。科学警察研究所第二課の車両がゆっくりと滑り込むように停止した。
「——間違いない、この倉庫だ。」
片瀬がタブレットを見ながら声を潜めた。
追跡してきた輸送ルート、蛇の目の演算結果、物流パターンの収束点。すべてがこの港の倉庫に集約していた。
「なんだか……いやな感じがするわ。」
吉羽恵美は、防弾ベストの肩口をぎゅっと握りしめながら、暗い建物を見上げた。潮の匂いと油の臭いが、夜気に重く沈んでいる。ここは、ただの倉庫ではない。
秋山慎一郎が静かに前に出て、全員に指示を飛ばした。
「中には少なくとも一人はいる。突入班は二手に分かれろ。俺と吉羽が正面。渡辺と片瀬は裏から回れ。」
「了解。」
吉羽は一瞬息を整え、無線を確認する。その声は張り詰めているのに、どこか震えがあった。
雨音と心拍だけが世界を満たすなか、彼らはシャッターを破り、倉庫の闇の中へ踏み込んだ。
中は異様なほど整然としていた。広い空間に無骨な冷凍庫、ステンレスの作業台。
血の跡はなく、むしろ不自然なほど“清潔”だった。
その中央に、痩せた男が立っていた。
「動かないで!」
吉羽が声を張る。銃口が、男の胸にまっすぐ向く。
「う、うわっ……! ま、待ってくれ!」
秋山が一歩前へ出た。
「お前はここで何をしていた。」
男は両手を挙げ、震える声で答える。
「運んでるだけなんだ! 中身は知らない、本当に知らなかったんだ!」
蛇の目が、研究所のオペレーションルームから低く響く。
≪音声解析完了。発話には虚偽反応の兆候なし≫
吉羽は視線を逸らさず、声をやわらげた。
「“運んでるだけ”って、何を?」
「冷凍コンテナだよ……。指示されて、ここに置くだけなんだ……!」
秋山の視線が鋭く光る。
「誰に指示された。」
「し、知らない……顔は見たことない……全部、暗号化されたメッセージアプリで……。深夜にコンテナを運んで置いたら、報酬が振り込まれる……それだけなんだ……!」
≪慎一郎、蛇の目です。発信元は複数の海外VPNを経由。追跡は難航します≫
「やはりな……」秋山は短く吐き捨てるように言った。
吉羽は眉をひそめ、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、あなたは“運び屋”ってわけね。肝心の“誰が送っているか”は、何も知らないってこと……」
そのとき、片瀬が冷凍庫のロックを外し、扉を開けた瞬間――空気が一気に変わった。
「……う、うそでしょ……」
吉羽の声が震えた。
冷凍庫の中には、整然と並べられた遺体が複数体。
すべてにエンバーミング処置が施され、まるで“展示”のような整い方をしていた。
「まるで……飾られてるみたい……」
吉羽の喉がひくりと鳴る。冷たさと嫌悪と恐怖が、背筋を這い上がってくる。
秋山が低く呟いた。
「犯人はここを“中継地点”にしている。自分の手を汚さず、物流だけで遺体を運んでいる。」
蛇の目が淡々と告げる。
≪犯人は輸送・保管・展示を分業化している可能性が高い。運び屋は事件全体を把握していない≫
「……悔しい……」
吉羽は拳を強く握りしめた。
「こんなに近くまで来てたのに……肝心な“本物”には、まだ触れられていないなんて」
秋山は冷静な声でチームを振り返る。
「まだ終わりじゃない。奴は次の輸送ルートをすでに準備しているはずだ。」
≪慎一郎。蛇の目から補足。現在も県外の港に類似の冷凍コンテナが複数移動中≫
「全て照会しろ。……次は、逃さない。」
雨脚はさらに強まり、倉庫の屋根を叩きつける。
運び屋は拘束された。
だが――真犯人は、まだ夜の海の向こうで息を潜めている。
蛇の目のモニターが、冷たい光を放っていた。
第二課の戦いは、さらに深い闇へと沈んでいく。
港の夜は、静かに、そして残酷なまでに冷たかった。
突風が吹き抜け、貨物ヤードに積み上げられた無数のコンテナの壁を揺らす。波止場に立つ吉羽は、濡れた髪を払いながら、目の前にずらりと並んだ赤や青、緑のコンテナ群を睨みつけていた。
「……まるで迷路ね。」
肩をすくめながら呟く声は、冷たい夜気に掻き消されそうだった。
「慎一郎、こちら現場。蛇の目の解析で示されたコンテナ群のうち、12基がこの港にあると確認された。」
渡辺が無線を握り、報告する。
秋山の声が、イヤーピース越しに返ってくる。
「了解した。コンテナの開封は一基ずつでいい。蛇の目のサジェストに従え。」
≪コンテナの識別完了。ロットナンバー、輸送経路、封印コード。11基は同一経路の複製と判明。実体は空。≫
蛇の目の声は冷徹で、何一つ揺らがない。
「偽装……ってこと?」
片瀬が思わず声を漏らす。
≪はい。犯人は追跡を撹乱するため、同一ナンバーの輸送記録を複数生成し、各地の港にダミーをばら撒いています。≫
吉羽の眉がピクリと動いた。
「……じゃあ、私たちが追ってきたコンテナのほとんどが――空っぽってこと?」
≪その通りです。実体を伴っているのは“ただ一基”のみ。≫
張り詰めた空気がその場を包み込む。
渡辺が手に持つライトをコンテナの列に向けると、赤錆びた壁が冷たく光った。
「ここまで翻弄されてきたってわけか……」
渡辺は悔しげに拳を握る。
「でも……逆に言えば、“一つだけ”本物があるってことよね。」
吉羽は少し唇を噛みながらも、静かに言った。その声には、彼女らしい芯の強さが宿っていた。
≪現在、該当コンテナを特定中……識別完了。C-79。北側ヤード第3ブロックに停留。外部温度−5℃、内部温度−10℃。開封の痕跡なし。≫
秋山が即座に指示を飛ばす。
「吉羽、渡辺、片瀬。第3ブロックに移動しろ。C-79を確保する。」
「了解!」
三人は夜の港を駆け抜ける。積み上がったコンテナの迷路のような通路を進むたび、鉄の軋む音が耳に残る。
「……静かすぎる。」渡辺が息を潜めるように言った。
「犯人がこの状況を予測していた可能性があるわ。」吉羽は走りながら低く返す。「罠の可能性も忘れないで。」
やがて、第3ブロックの端に、目立たないように置かれた一基のコンテナが現れた。
赤錆と黒いマーキング、封印された鍵。
これが――本物。
「C-79、確認。」
片瀬がタブレットでシリアルナンバーを読み上げる。
≪間違いありません。内部反応、検出。遺体と推定。≫
「……よし、開けるわ。」
吉羽が工具を手に、錠前を外す。冷たい鉄の音が、夜の港に不気味な余韻を残した。
扉を引くと、内部の冷気が一気に吐き出される。
――そこには、白いシートに包まれた“人間”のシルエットが横たわっていた。
「……っ」
吉羽が息を呑む。
遺体はエンバーミング処理が施され、血の一滴も残されていない。
目元には、あの特徴的な――淡いグレーのカラーコンタクト。
「……あのときと同じよ。」吉羽の声は震えていた。
蛇の目が静かに告げる。
≪全てのダミー輸送は、C-79を覆い隠すための撹乱行為です。犯人は港湾輸送網の知識に長け、物流の死角を熟知していると推定されます。≫
秋山の声が無線に入る。
「……つまり、奴は俺たちが“網を張る”ことを最初から読んでいた、ということだな。」
「くそっ……完全に踊らされてたってわけか。」
渡辺が苦く吐き捨てる。
吉羽は静かに目を閉じ、吐息を整えた。
「……でも、ようやく“たった一つの真実”を手にしたのも事実よ。罠でも、ここが突破口になる。」
蛇の目のディスプレイに、遺体の解析データが高速で流れていく。
≪C-79は“終点”ではなく“経由地”。ここからさらに別の地点へ移送される予定でした。スケジュールデータ復元中……≫
秋山の声が鋭くなる。
「……動き始めるぞ。真犯人が、この“偽装の海”のどこに潜んでいるのか――突き止める。」
冷たい風が、港を吹き抜ける。
積み上がった無数の空コンテナは、まるで死者たちの墓標のように静まり返っていた。
一基だけ本物――それが、犯人の頭脳と狡猾さを何よりも雄弁に語っていた。
そして、蛇の目は冷徹な声で告げる。
≪犯人の思考は“保護と展示”です。奴はこの物流そのものを、自分の劇場にしている。≫
吉羽は、その言葉を噛み締めるように小さく呟いた。
「――だったら、その幕を、こっちで下ろしてあげる。」
雨が静かに降り続ける夜。
第二課の戦いは、静かに次の段階へと踏み出していった。




