第1話/埋葬
兵庫県西宮市の郊外、六甲山系の裾野に広がる静寂な森の中に、「蒼影霊園」という名の霊園がひっそりと佇んでいた。霊園は地元住民にもほとんど知られておらず、正面の入り口には錆びついた鉄製の門が立ち、雑草が伸び放題の小道が奥の墓域へと続いていた。四季折々の樹木が生い茂るため、昼間でも木漏れ日がまばらに差し込み、霊園全体が薄暗い影に覆われている。
ある朝、地元の清掃業者が霊園内を巡回していた際、異様な匂いとともに、ほとんど手入れされていない一角で、埋葬されたはずの遺体が不自然に露出しているのを発見した。その遺体は通常の土葬とは異なり、精巧にエンバーミング処理が施されており、皮膚はわずかに蝋のような光沢を帯びていた。しかも遺体はまるで放置されたかのように、土が薄くかぶさっているだけの状態で横たわっており、近くには墓石や名札も一切存在しなかった。
遺体発見の一報はすぐに西宮警察署に届き、科警研第二課も出動することとなった。主任捜査官の吉羽恵美は、現場に到着すると、渡辺直樹とともに遺体の状況を詳細に確認した。片瀬梓は現場で採取した土や微量の化学物質を分析するため、すぐに仮設のラボを設置した。室長の秋山慎一郎は、すでに「蛇の目」を通じて過去の未解決事件データや周辺監視カメラの記録と照合を開始していた。
霊園の管理者は「蒼影霊園は個人経営の小規模霊園で、数年前からほとんど利用者がいない」と語るが、近隣住民の話では、夜な夜な霊園内を訪れる人物がいたという目撃情報もあり、事件の謎をさらに深めていた。遺体のエンバーミング状態や放置のされ方、そして人知れず続く霊園への出入りは、明らかに自然な事故や単純な犯罪とは異質で、背筋を凍らせる異様な印象を残していた。
吉羽は現場を見渡しながら、小さく息をついた。「この霊園、ただの廃墟じゃない……何か、誰かに意図された空間だわ。」
渡辺が横で頷き、片瀬は機械のモニターを見つめたまま低く呟く。「しかも、これ、単独犯の仕業じゃない可能性が高い……。」
その時、秋山の声が携帯端末から響いた。「蛇の目、KAZUHAコアを接続。対象の過去の連続殺人パターンを分析中……。」
こうして、静寂に包まれた「蒼影霊園」は、吉羽たち科警研第二課が挑む、冷たくも禍々しい事件の舞台となった。
科警研第二課の捜査室は、現場から戻った吉羽恵美たちでざわめいていた。机の上には現場から持ち帰った土や微量のエンバーミング剤のサンプル、現場写真のプリントが散乱している。
「ただいま戻りました。」吉羽が軽く肩を落としつつ報告を始める。
「どうだった、現場の状況は?」秋山慎一郎が椅子から立ち上がり、厳しい目で吉羽を見つめる。
「西宮市の『蒼影霊園』、小規模でほとんど手入れされていない霊園です。入口から奥まで雑草が伸び放題で、昼でも薄暗い場所でした。」吉羽は資料を示しながら説明する。「遺体は埋葬されているはずでしたが、薄く土をかぶせられて放置されていました。しかも、エンバーミング処理が施されていて、通常の土葬とは全く違います。」
片瀬梓がモニターを指さして言う。「サンプルの分析を始めましたが、保存状態は極めて良好です。皮膚には蝋のような光沢があり、化学的な防腐処理が施されている可能性があります。」
「防腐処理……それ、プロがやったってこと?」渡辺直樹が眉をひそめる。
「可能性は高いですね。ただの遺体遺棄とは違う。何か意図的に見せたい状態で置かれている。」吉羽は資料をまとめながら言葉を選ぶ。
秋山が机の端に置かれた端末を操作しながら低く呟く。「蛇の目、KAZUHAコアを通じて過去の連続殺人データと照合中……この遺体の処置には、既知のパターンと一致する特徴があるかもしれない。」
片瀬が眉を寄せる。「それにしても、監視カメラにはほとんど映像が残っていません。霊園は人目につかない場所にありますし、出入りの記録もほぼなしです。」
渡辺がデスクに肘をつきながら呟く。「つまり、犯人はかなり計画的に、この場所を選んだってことか……。」
「その通り。」吉羽は資料を揃えつつ言う。「しかも、エンバーミングされていることから、殺害後に遺体の管理や処理まで考えている人物です。偶発的な犯行ではなく、非常に冷静で計算高い。……そして、現場に痕跡を残しているということは、何か意味があるはずです。」
秋山は視線を遠くに向け、沈黙の後に言った。「今回の遺体、そして処置……KAZUHAコアの示すパターンとリンクする可能性がある。蛇の目の解析結果を待てば、犯人像の輪郭が見えてくるだろう。」
片瀬が端末を操作しながら小さく笑う。「……正直、現場よりもデータの方が先に答えをくれる気がしますね。」
「でも、現場の匂いや空気感は、蛇の目にはわからない。」吉羽は少し笑い、肩越しに渡辺を見た。「だから私たちの仕事も必要なんです。現場でしか見えないものがある。」
渡辺は黙って頷き、デスクの上の現場写真に目を落とす。「……この霊園、ただの廃墟じゃないな。何か、意図を持った空間だ。」
科警研第二課の室内に、現場の冷たく静かな空気と、解析の緊張感が同時に漂った。事件の輪郭はまだぼんやりとしていたが、確実に、何か得体の知れない力が彼らの前に現れようとしていた。
片瀬梓が端末を操作すると、室内のモニターに複雑なデータと映像の解析結果が次々と映し出された。蛇の目が現場からの情報を取り込み、瞬時に膨大な過去の事件データと照合している。
「解析開始……」片瀬が低くつぶやくと、モニター上の映像が自動で整理され、過去の連続殺人事件の手口や遺体処理のパターンが次々と浮かび上がった。
秋山慎一郎は腕を組み、画面をじっと見つめる。「KAZUHAコア、今回の遺体と過去の事件を照合。類似度分析を始めろ。」
モニターに、数字とグラフが高速で流れる。赤い点が過去の事件、青い点が今回の蒼影霊園の遺体の特徴を示している。やがて、解析結果が一つの結論を示す。
「類似度98%……」片瀬が息をつく。「過去に和葉が関与した事件の手口とほぼ一致しています。防腐処理、遺体の配置、痕跡の残し方、どれもKAZUHAコアの過去データに極めて近い。」
吉羽恵美は眉をひそめ、画面を食い入るように見つめた。「つまり、これ……犯人は、和葉の手口を模倣しているか、もしくは直接的に影響を受けている可能性があるってこと?」
秋山は頷く。「可能性は高い。しかも、KAZUHAコアを通じて解析すると、今回の犯行にはただの模倣ではない『意図』が含まれていることがわかる。」
渡辺が机を叩き、焦った声で言う。「意図……? つまり、これは挑戦状とか、何かメッセージなのか?」
片瀬は冷静に答える。「それだけではない。遺体の防腐処理や配置の細かさ、そして監視カメラをかいくぐる経路の選択……これ、KAZUHAコアが他の殺人犯の脳とリンクしていた可能性もある。単独犯では計り知れない精密さです。」
吉羽は視線をモニターに固定したまま、声を落とす。「……つまり、私たちはただの殺人事件を追っているわけじゃない。『死の天使』の知覚と計算の痕跡が、この霊園に刻まれているんだ。」
秋山は静かに息をつき、モニターの数字を眺める。「この分析結果をもとに、犯行の時間、移動経路、使用された化学物質まで推定できる。蛇の目は人間の直感では捉えられない細部を示すだろう。」
片瀬は端末を操作しながら言った。「……現場では見えなかった痕跡も、データ上では確実に存在しています。犯人は、意図的に私たちに考えさせる余地を残している。冷徹で、計算され尽くした痕跡です。」
吉羽は拳を握り、決意を込めて言った。「……よし。解析結果をもとに、現場の痕跡と照合しよう。私たちが現場で見落としている小さな手掛かりが、犯人に近づく鍵になる。」
科警研第二課の室内に、解析の冷徹な光と、捜査官たちの熱気が入り混じる。霊園の遺体が示す異常さと、KAZUHAコアの過去の影響──事件の輪郭は、少しずつだが確実に浮かび上がりつつあった。
夕暮れの六甲山系、蒼影霊園。森の湿った土と枯れ葉の匂いが鼻腔をくすぐる中、吉羽恵美と渡辺直樹は再び現場に足を踏み入れた。科警研第二課から送られた蛇の目の解析結果を胸に、二人は慎重に足を進める。
「……やっぱり、ここ、ただの霊園じゃないな。」渡辺が小声で呟き、雑草に隠れた土の微妙な盛り上がりを指差す。
「そうね。」吉羽も視線を落とす。「解析によると、この区画、遺体が最初に埋められた場所じゃない可能性が高い。土の成分が周囲と微妙に違うの。ここに移動させられた可能性がある。」
渡辺は少し間を置いて、眉をひそめる。「つまり……犯人は、わざわざ遺体を別の場所に移動させたってことか。監視カメラもない場所で、しかも防腐処理まで施して……。」
「偶然じゃない。」吉羽は手袋をした手で土を撫でる。「ここ、わずかに踏み固められてる。人間が体重をかけた痕跡……微細だけど、蛇の目の予測と完全に一致する。」
渡辺は視線を上げ、周囲の木々を見回した。「怪しい足跡は……無いな。でも、微妙に土の混ざり方が不自然だ。人工的に整えられてる。ここまでやるなんて、やっぱり計画的だ。」
吉羽は小さく息を吐き、端末のスクリーンを取り出した。「片瀬の解析結果によれば、遺体の防腐処理には特殊な化学薬品が使われているみたい。普通の市販品じゃない。プロか、もしくは過去の殺人者の知識を取り入れているか……。」
渡辺は腕を組み、考え込む。「KAZUHAコア……やっぱり関係あるのか? 防腐処理の手口も、遺体の配置も、監視カメラをかいくぐる経路も、すべて計算され尽くしてる。」
「可能性は高いわ。」吉羽は目を細め、森の奥を見つめる。「そしてこの霊園、死角が多すぎるの。監視カメラや人目を避けるには最適な場所。犯人はそれを知っていた、もしくは指示を受けて動いている。」
渡辺が少し身を乗り出して、土を掘り返す。「この金属片……器具の一部だろうか。微量の防腐液も付着してる。移動用の道具をここに落とすなんて、犯人、どれだけ慎重なんだ。」
吉羽は土を注意深く掘り返しながら、眉を寄せる。「蛇の目の予測では、遺体はさらに奥の区画に移動させられる可能性がある。土壌の微量成分と、植物の踏み跡、落ち葉の乱れ方……これがその手掛かりになる。」
渡辺は指を差し、茂みの中に微妙な土の盛り上がりを見つけた。「ここか……微妙すぎて、人間の目じゃ気づかないな。」
吉羽は頷き、声を落として言った。「解析と現場の手応えがリンクした瞬間。ここで見逃したら、犯人は確実に次の一手を打つわ。」
渡辺が肩越しに吉羽を見て、低く笑った。「やっぱり、現場で直接見ることが大事だな。蛇の目だけじゃわからないものも、五感で感じ取れる。」
吉羽も小さく笑みを返す。「そう。AIは冷徹にデータを解析するけど、現場の匂い、空気、微妙な違和感……人間にしか感じられない手掛かりもある。」
二人が黙々と現場を調べる中、夕暮れの影が長く伸び、森のざわめきがかすかに聞こえる。湿った土の匂いと、落ち葉のカサカサという音が、死の静けさと共鳴するかのようだった。
吉羽は拳を軽く握り、決意を込めて言った。「……よし。この痕跡を追えば、犯人の動きが少しずつ見えてくる。慎重に、でも確実に。」
渡辺は深く頷き、掘り返した土を慎重に手で触れながら言った。「この霊園、ただの廃墟じゃない。犯人の意図が、ここに刻まれている……。」
森に吹く風が二人の髪を揺らし、夕陽が樹間に長い影を落とす中、吉羽と渡辺は冷たく静かな霊園で、AIの示す未来の手掛かりと、現場の五感を頼りに、事件の核心へと一歩ずつ近づいていった。




