逃走
私が階段を降りると続いてさっきとは異なるベルが鳴った。
緊急時用の警告ベルだ。
おそらく逃げ出した凶悪犯、つまりは私を警戒せよというサイレンだろう。
私が警視庁に勤めて数年、このベルを聞くのは訓練以外では初めてのことだった。
「滝島!」
私の名を呼んだのは息を切らした高橋だった。
「高橋。何なの?何が起こってるの?」
高橋の顔を見て急に緊張の糸が緩み、押し込めていた混乱が暴れだしていた。
「俺にも分からない。とりあえずここから出るんだ」
「分からない?あなたはこうなることを知っていたんでしょ?」
私のやり場のない苛立ちが高橋に直撃していた。彼の表情は固いものの、今朝とは異なり芯の通った信念を秘めた強さがあった。
「知っていることは話す。後でだ。いいな」
彼の言葉には有無を言わさぬ強さがあった。
高橋は私の手を握り、廊下を駆け抜ける。オフィス内は混乱と動揺でごちゃごちゃになっていた。放送で「滝島カオルを捕まえろ」と叫ぶ声が館内に響いていたが、私がそんな有名人であるわけがなく、誰も私を捕まえようとしなかった。
今から思うと私を本気で捕まえるには、あまりに準備不足、警戒不足だった。
警察にはあるまじき行為だ。
その理由も全て私を逃がすためだった、と知るのはもう少し先のこととなる。
非常事態により、エレベーターは動かなくなっていた。私達は非常用の階段を使って、1階まで下りた。
これまでエレベーターに頼っていた私にとっては過酷な運動だったし、極度の緊張で私の呼吸は乱れていた。
「とりあえず乗るんだ」
高橋はビルの前に停めていた自分の車に飛び乗り、早々と警視庁を後にした。私も高橋もゼイゼイと息を切らし、沈黙の車の中に二人の激しい呼吸の音だけがする。
「何なの?私は何もしてないわ」
「だから、俺は信じてるって言ってるだろ」
「私が命蝕被害者だから?知りもしない人に崇拝されてそれだけで犯人にされたらたまったもんじゃないわ!あなたは何を知ってるの?」
高橋は真っ直ぐに前を見たまま素っ気なく答える。
「俺は昨日の朝、部長にお前の行動を観察するように命じられた。現場を去る時、携帯が鳴っただろ?箕輪っていう偉い奴だったよ。お前のことを夜会の犯人だって言ってさ、明日取り調べに使うから観察記録を特捜に送れっていう伝言だった」
予想はあたっていた。確かに凶悪犯が自分の同期だと言われたら、当惑するのも無理はない。それで高橋はあんなに放心状態に陥ったわけか。彼の様子がおかしくなったのはあの電話からだ。
「で、何て送ったの?」
「異常なしって。そもそもあんないい加減な捜査だけで何も分からないだろ?」
「あれは確認に行っただけよ。いい加減とか言わないでよ」
高橋と話していると、自分がしでかした事の大きさを忘れそうになる。私が逃げ出したことは、犯人の自白と取られてもおかしくはない。しかし、あの場にいたらどうなっていただろう。間違いなく、私に弁解の余地はなく投獄され、死刑囚としての生涯を遂げただろう。
彼らがあれだけ不明確な証拠を突きつけて私を犯人にするのは、何か絶対的で理不尽な力が存在している気がした。
あとは手紙だ。
あの手紙が私を突き動かしたのは間違いない。
「私、逃げちゃった」
「あのままじゃ一緒だろ。自白とか要らないんだよ。これでお前も俺も普通の生活はできないな」
高橋が嘯き笑う。笑っている場合ではないだろうと思いながら、私と運命を共にしようとするこの男の真意が分からなかった。
「だめだ・・・」
私の手足はガクガク震えていた。何とかして抑えようとするが震えは止まることはなかった。
「私、どうしたら・・・」
「逃げるしかないだろう。捕まったら終わりだ。逃げるんだ」
彼の言う「終わり」が地獄に直結するものであると分かっていたが、実感が湧かない。
『隠れ家に逃げるように』
ふと手紙の最後の一文が頭に浮かんだ。
「隠れ家なんて分からないよ」
とてつもなく広い世界のように思っていたけれど、こんな事態になるとどこにいても見つかってしまうような気がする。助手席で体を抱えながら震えを押さえつける私の顔を高橋が心配そうにのぞきこんだ。
「おい。滝島大丈夫か?顔、真っ青だぞ」
「え・・・?」
気がつくと目の前の景色が灰色になり歪んで見えた。次第に刺すような鋭い頭痛が私を襲った。
息をひそめていたその痛みは急に私の頭の中で暴れ始めた。
「え・・・どうしたらいいんだ?車を停めたほうがいいか?」
私の眼は高橋がうろたえている姿さえ捉えられなくなっていた。私の頭を何者かが突き破ろうとするような激痛だ。
「い・・・いたい・・・」
走りすぎたのだろうか。それとも極度の緊張で体に何らかの変調を来したのか。いずれにしろ、私はこのまま死んでしまいたいと、この時思っていた。居場所を理不尽に奪われた悲しみと憎しみ、そしてそれらと共にこのまま消え去りたいと思っていた。
ねぇ お父さん わたし、もう少しここにいてもいい?
わたし こわい夢をみたの ねむれなくて でも おともだちが助けてくれたの
「滝島!」
高橋が叫ぶ声が遠くから聞こえる。
おともだちはいつも わたしを 助けてくれるの
まりるっていうのよ
私は大きな力で暗闇に引きずりこまれるのを感じた。もう目覚めることのない暗黒の世界に飲み込まれることを受け入れていた。