絆
高橋は素早かった。目にも留まらぬ速さでリヒトの元へ駆け寄り、素手で殴りかかろうとする。私が「あっ」と声を上げた時にはリヒトはその拳を左手で受け止めていた。
「お前みたいな下っ端に負けると思ったのか?」
背中がヒヤッとするような冷たく低い声でリヒトが告げた。その言葉には他の者には出せない凄みがある。
「さすがリヒト様。確かに俺では敵いそうにありませんね」
「じゃあお前はどうしてそこで待っていたんだ?」
高橋はリヒトに掴まれた右手を引き抜いて、ブンブンと振りながら不敵な笑みを浮かべた。
「俺はね、星の奴隷であることを受け入れています。ここで青い月を待つように言われたら、永遠という時でさえ、こいつらを待っていたと思う。忠犬ハチ公より忠実だ」
「それは威張るべきことではないだろう?」
「そうかなぁ。ハチ公は銅像まで立っていますけどね」
数年間を共にした同期が今、私の前で星への忠誠を誓っていることを口にした。私は愕然とする。
「リヒト様。貴方に私怨はありません。あまり闘いたくもない。どうか、青い月を沈ませる邪魔をしないでいただきたいのですが」
「馬鹿言うなよ。僕が弟を見殺しにすると思うか?」
高橋は嘲笑を浮かべて、溜め息を吐いて髪を掻き分ける。
「まだ兄弟ごっこですか。もう貴方は人間だった頃の桐谷リヒトではないのですよ。すでに貴方のDNAは桐谷リヒトのものでは決してないし、貴方と青い月は兄弟では決してない。いい加減目を覚ましてはどうです?」
高橋の言うことはある意味正しい。コアとなったリヒトのDNAは既に人間のものとかけ離れている。おそらく生き物というカテゴリーの末端を担っているかいないかの瀬戸際に立っている。既に彼らは人間世界でいう兄弟ではない。
冷たい非常な言葉を投げかけられたというのに、リヒトはぷっと吹き出してから、声を上げて笑った。
「何がおかしい?」
「言いたいことはそれだけか?」
高橋を睨みつけるリヒトの視線は鋭利な刃物のようだ。一瞬高橋が怯むのが分かった。
「僕達は永遠に兄弟だ。その絆は無くなりはしない」
絆。私はその言葉を心の中で反芻する。私と父。私と母。いなくなっても、死んでも、家族は絆で結ばれている。そう思うと心がほっこり温まり、私の中のマリルが微笑むのを感じた。
「それが分からないお前を僕は可哀想に思う」
リヒトの瞳には怒りや恨みのような熱い感情は一切込められていない。むしろ逆の侮蔑や同情のような冷たい感情がぎっしり詰まっているように見える。
「兄貴。俺が闘うよ」
守られる側であったナオトが妖刀・夜明けを抜いた。青く煌く美しい刀身が顕になり、洞窟の薄暗い中でも一際輝いて見えた。しかし、すぐにリヒトは手を上げてナオトを制止した。
「お前はそこにいろ」
「でも……!」
「お前には後で大事な仕事が待ってる。それまではせめて守らせてくれ」
兄として、できることをやり遂げようとする彼の姿に、私の胸の奥が熱くなるのを感じた。何かが共鳴するように、蠢き私に告げる。見届けよ、と。
「さぁ、高橋。あんまり時間はない。さっさとやられろよ」
周囲の大気が張り詰めていく。全てのものが息を殺し獲物を駆る獅子のように洞窟の中が緊張感で敷き詰められていく。
糸がプツンと切れるように大気が緩んだ瞬間、凄まじい黒炎が高橋を襲った。
「本気ですね」
炎に覆われながらも冷静な様子で高橋は立っていた。コアにとって火傷は脅威ではないのだろうか。
「いいでしょう。こちらも本気で行きますよ。リヒト様」
高橋が一足飛びでリヒトの懐に飛び込む。リヒトは後ろへピョンとジャンプし避けたけれど、すぐに高橋の二歩目が追いつき、拳がリヒトの肩をかすめる。無防備になった高橋の腹にリヒトの拳がしっかりとはいる。
「分かってるのか?既にお前に勝ち目は無いよ」
「えぇ。分かっていますよ」
咳ごんだ高橋の唇の端から涎がはみ出しているが、すぐに彼はそれを拭った。
「コアの闘いの勝敗は最初から決まっている。弱肉強食。最初から強いものが再蝕の権利を有している。俺にいくら殴っても、いくら刃物で刺しても勝利はないことくらい分かっていますよ。そこまで馬鹿じゃない」
「お前を食いたくないな」
「そうでしょうね。貴方が俺を再蝕すれば、貴方の身体は星の理想へと近づくことになる」
「違うよ。お前なんか食ったら食中りを起こしそうだ。それよりいいのか?星はお前を餌にしようとしているんだろ?」
「そうかもしれません。でも俺の身体は星のために存在している。何の恐怖も感慨もありませんよ」
肩を竦める高橋はへらっと笑った。そして再び攻撃を仕掛ける。猪突猛進な高橋をあしらうように、リヒトはその戦いを放棄していた。リヒトの確固たる強さを感じる。無駄の無い動きでリヒトは高橋の攻撃を避け、攻撃の機会を窺っている。
「星の意志に逆らうことが如何に愚かなことであるか、考えませんか?」
「は。考えたことも無いな」
「星に生きる命が、星の意志に反して生きるなんて、重力に逆らうようなものだ」
襲い掛かる百戦錬磨の攻撃を全て避けながらリヒトはふっと笑う。
「重力に逆らうんだよ。僕達は」
「?」
「おやすみ」
ポスッと鈍い音がしたと思ったら、高橋はその場でこんにゃくのようにぐにゃりと倒れた。どうやら、水月にしっかりと拳を入れたらしい。
「眠っている間に、先に進もうか」
ポキポキと手の関節や首を鳴らしながら、気の抜けた声でリヒトは言った。私達は呆気なくやられてしまった高橋の姿を見下ろしながら、小さく首を縦に振った。