弟の本音
洞窟は湿度が高く、空気が篭もっていたせいで、サウナのような暑苦しさがあった。視界は真っ暗で足元も全く見えない。懐中電灯がなければ、このまま前へ進むことも難しいだろう。
「僕が光を灯すから、着いてきて」
そう言うと、リヒトは掌に火の玉を出す。紅い小さな炎が辺りをぼんやりと照らし、それと同時に驚いた数匹の蝙蝠が羽ばたき音をたてながら、私達の頭上をすり抜けるように飛んでいった。
「ここからそんなに遠くはないと思う」
道先案内人がこんなに美しい青年ならば素敵なツアーになると思いたいところだが、こんなに核兵器が待つ薄暗い洞窟ツアーならばあまり良いものではないだろう。私は額に滲む汗を袖で拭った。びっしょりと濡れていたが、自分の汗なのか立ちこめる蒸気のせいかは分からなかった。
「ナオト」
前を向いて歩きながら突如リヒトがナオトに声をかける。
「何だよ?」
突っ張るような声が彼を幼く感じさせる。リヒトもそれを感じ取ったのか、小さく息を吐いてふっと笑った。
「お前さ、まだ、僕のこと恨んでるか?」
「あぁ?今更何言ってる」
「今だから聞いてるんだ」
ぴしゃりと言い切られてしまって、ナオトは口篭る。何を言おうか思案している様子で、ナオトは俯いた。勿論、私はもうその答えを知っている。それは彼自身の口から聞いたことでもあるし、既に私が感じていることでもある。
「もう終わりだから、とか言いたいのか?」
ポツリとナオトが呟く。
「もう、星に身体を奪われるから最期に、って言う意味なら、俺は絶対に言いたくない」
「ははは。さすがだな。しっかりばれてるし」
「恨んでいるって思うなら、俺に謝れよ」
私達の前方を歩くリヒトがピクッと反応するのが見て分かった。当然ナオトにも分かっただろう。彼はしばらく押し黙っていた。さりげない会話に過ぎないものだったはずだったが、私はとても重大な場面に遭遇しているような気分になった。
「お前から幸せを奪ってしまったことをすまないと思っている」
リヒトが感情のない声でそう告げた。感情を込めてしまえばその場で動けなくなるほどの激しい感情が彼の中に渦巻いていたからだろう。
「ごめんな」
リヒトが言った謝罪の言葉を掻き消すようにナオトは強い語調で言った。
「きっと、もっと早く許せたと思う」
「え?」
「お前が俺から逃げ出さなければ、もっと早く向かい合えたなら、もっと違う運命が待っていたと思う」
私は横を歩くナオトの顔を見ることができなかった。もし私が彼を今見てしまったら、風化した石像のように脆く崩れ去り砂になってしまうのではないかと思ったからだ。
「正直言って、兄貴のせいじゃない。これは星の図ったことで兄貴はただ巻き込まれただけだから。俺はそれを知っていたけど、憎まずにはいられなかった。憎しみがなければ俺は狂っていたか死んでいたと思う」
「ナオト……」
「兄貴がいなくなって、そして次に兄貴の居場所を知った時はびっくりしたよ。兄貴が命蝕を促進する妖しげな夜会を開いているんだからな。コアは皆が口を揃えて『リヒト様』を仰ぎ、奉る」
「もう言うまでもないと思うが、アレは僕じゃないよ」
勿論知っている。夜会を扇動していたのは他でもないリヒトの身体を操っていた星だ。
「そういうことも全部どうして1人で抱えたりしてたんだって、思うんだ。そういう恨みは今もある」
ナオトの言葉を聞いているリヒトの背中は、ナオトのものに比べて更に華奢に見える。そんな背中でどれほどのものを背負っていたのだ。私まで彼を責め立てそうになってしまう。
「そっか。まぁ言い訳すれば、僕が青い月に接近することは無理だったんだよ。星の監視下にあったから。僕達は星に監視され操られるだけの奴隷で自由は全くない」
「今は?」
「今はこの周囲に星の気配はない。さっきも言ったけど、どうせ戻ってくるよ」
諦観の色を帯びている声が洞窟に響いている。その響く余韻が失われる時リヒトはぽつりと呟いた。
しかしその声はあまりにくぐもったもので聞こえなかった。
「何か言った?」
「いや。別に」
リヒトはやんわりと再度その言葉を発することを拒んだ。腑に落ちないナオトの横顔はどこか笑っている。
洞窟は緩やかな下り坂だ。時折、動物のものと思われる骨や蝙蝠の死骸が落ちているが、それらを身軽に避けながらリヒトはひたすら足を動かしている。
「涼しくなったね」
気がつくと、確かに爽やかな風が頬に当たっている。空気が流動している。
「てことはもうすぐ着くって事だよ。覚悟はいい?」
神妙な顔をしている私に、リヒトは首を傾げながらにっこり微笑んだ。
「カオルは星の気配に集中して。ナオトはその【眼】を頼りに星を貫くように。もうあまり時間はない」
「待って。あれは……」
指示を出すリヒトの更に奥に人影が見えたため私は思わず声を上げた。コアだ。それは気配で分かった。しかし、そのコアは私にとってあまり出会いたくない存在だった。
女性ウケの良い爽やかな笑みを浮かべ、奥から長い足をゆっくりと動かしながら、近づいてくるコアは私のかつての同僚だった。
「へぇ。本当にここから侵入してくるなんてな」
高橋ヒカル。警察の幹部候補生であり私のライバルだった彼がスマートな真っ黒なスーツに身を包んで私達を出迎えた。
「星の言ったとおりだ。久しぶりだな、滝島」
「た……高橋が何でここにいるの?」
我ながら馬鹿な質問をしたと思う。彼はコアであり、星の忠実な下僕であることは既に分かっていることではないか。
「滝島と忍海ナオトがここから侵入するって星が言ったからさ。それ以外俺がここにいる理由はないだろ。頭使えよ」
論うような口調で高橋は私に告げ、その後リヒトの方へ視線を向けた。
「驚きましたよ。リヒト様がまさか裏切り者だったなんて」
スキャンダルを掴んだ記者のようにほくそ笑む高橋は私の知っている彼からは想像もつかないほど醜悪な顔をしている。
「星も貴方の裏切りに悲しむでしょうね。あ、いや、もう既にそういう些細な事に心を傷めることもないかもしれない」
彼は低い声で不吉な予言を述べた。私は耳を塞ぎたくなる。
「あと1時間もすれば、どうせ貴方の肉体は星のものになる運命ですから」
高橋は空手の形のような構えで、臨戦態勢に入った、