小休止
「フフフ・・・くだらないことをしたな。忍海ナオト」
妖しげな紫の光を纏い宙に浮かぶ星は、愉快そうに私達を見下ろしている。
「器を庇ってくれたことは礼を言っておく。マリルの魂を傷つけずに済んだ。しかしお前がこうも簡単にそこまでの傷を負ってくれるとは思わなかったぞ。ククク・・・」
噛み殺したような笑い声がこだまする。その声が歓喜の色を帯びていればいるほど私の心は深い闇の底へ追いやられそうになる。ナオトの苦痛に歪んだ顔と乱れた吐息がそれにさらに拍車をかけた。
「いずれにしろ、これは遊びに過ぎないのだよ。もうすぐ始まる宴の前座なのだ。青い月よ。もう諦めて眠るがいい」
急にナオトの目つきが変わり、彼は渾身の力を込めて青い刃を振った。刃からは青い衝撃波が放たれ星に迫ったが、私が瞬きした刹那に星はいなくなっていた。
「いけない子だ。まだ諦めないのか?」
気がつくとナオトの背後に星が立っている。凶悪で醜悪な微笑みを浮かべながら、ナオトの顎を掴む。
「殺してほしいようだな。お前の兄の手で」
「・・・お前はリヒトなんかじゃないだろーが」
「あぁ、そうだったな。だが彼が戻ることはもうない」
星は今やリヒトの身体から抜け出るつもりはないのだろう。おそらくこのまま3時を迎え夜会を起こし、彼はそのまま大規模な再蝕によりリヒトの体を完全に乗っ取るつもりだ。
この間合いならばナオトの手に握られた青い月は星に届く。しかしナオトの手は動くことはなかった。
「どうしてリヒトなんだ。どうして・・・」
ぽつりと呟くナオトの声は弱弱しい。
「リヒトは私の脅威と密接な関係にある。青い月と心を通わす者だ。青い月を支配できるならば、私には脅威はなくなる」
「それだけの理由か・・・?」
星は少し目を見開き、低い声で答える。
「マリルが求めた者だからだ」
私の中で何かが蠢くのを感じた。胎児が母親のお腹を蹴るように、それはひたすら私を刺激する。私の心を突き動かそうとする。
「なるほどな・・・。で、リヒトに成り代わろうって魂胆か。くだらねぇな」
ナオトは力なく笑った。その様子に星は少なからず憎悪を抱いたらしく、ナオトを突き飛ばした。
「立場が分かっていないようだな。お前など私はいつでも殺せるのだ」
「じゃあ、殺せばいいだろ。何故そうしない?」
よく観察すると星は微弱に震えている。先ほどの勝手に動く身体に逆らおうとするサンデを思い出す。彼と同様に奇妙な痙攣を起こしている。
「俺、わかるよ。リヒトが邪魔してるんだろ?」
ニッと笑うナオトの無邪気な表情は子供のようだ。以前の少年の身体をしていたナオトの面影がくっきりと残っている。
星は後ろへ一歩下がった。図星だったのだろう。嘘をつくのが下手なやつだ。
「兄貴。出て来いよ。こんなやつに負けんなよ」
ナオトは強く呼びかける。ナオトの口から飛び出した「兄貴」という言葉に不思議な重みを感じた。彼が意図的に口にしたのかもしれないが、自然な響きでもあった。
日記で呼びかける幼いナオトの姿が思い出される。ただ兄を慕い、背中を追い続けた彼が再びリヒトを「兄」と呼んでいる。
「ぐ・・・おのれ・・・」
星はその場で蹲る。彼の中で何かが暴れている。それにナオトが気付いたのか、さらに大きな声で叫んだ。
「兄貴!」
その掛け声で星は動かなくなった。彼の内面の反乱はやがて穏やかな彼の一言で沈静化した。
「ナオト・・・」
「兄貴、大丈夫か?」
先ほどまで禍々しい光を放っていた彼の瞳も黒き澄んだものに戻り、醜悪な表情はいつもの美しいものに戻った。
「お前の声が聞こえたよ」
「そうみたいだな」
ナオトの瞳が僅かに潤んでいて、リヒトはそれを見て柔らかく笑った。私はそれを見てフワッと心が浮かび上がるのを感じた。
「残念だけど、またあいつは戻ってくるよ。今は小休止に過ぎない」
「リヒトは3時から何が起こるか知っているのか?」
リヒトは表情を曇らせる。
「この先に湖がある。湖の底にアメリカ軍の基地があって、まるごと爆破することになってる。基地にはミサイルも核兵器も山ほどあるから、爆破とかしたら大事になる。それこそアメリカの広範囲が吹き飛ぶくらいにね。既に何体かのコアが基地に向かっている」
「そんな・・・」
「結局、人の手で創られたもので人は死ぬってことだ」
そう言い捨ててリヒトはゆっくりと歩き出した。彼が向かった先にはボロ雑巾のようにみすぼらしく突っ伏したままのルイがいた。
「り・・・リヒト様」
リヒトは脱力して既に動く力も無いルイを抱きかかえる。リヒトの瞳は優しく、少し潤んでいるようにも見えた。
「すまない」
「嬉しい。リヒト様が来て下さるなんて・・・」
リヒトの視線が致命傷に移っていることに気付き、ルイは消えそうな照れ笑いを浮かべた。
「忍海クンに負けちゃいました・・・」
「ナオトは強かったか?」
「・・・はい。貴方と同じく」
「そうか」
既にルイの放つ緑色の光は消えそうな焚き火の煙のように細く弱弱しいものになりつつある。彼女はもうすぐ消える。それはコアに詳しくない私にでも分かることだ。
「お願いがあります」
「?」
「私をこのまま食らうことは可能ですか?」
ルイは微弱な吐息と共にそう言った。彼女の声を聞いて、リヒトは少し考えを巡らし、やがて静かに頷いた。ルイは目に見えてほっとしたようだった。
彼女の青白い手をリヒトの華奢な手が握り締めた。リヒトはゆっくりと息を吸い込み、意識を集中する。
「もう夜に怯えることはありませんね」
ルイは微笑んだ。赤毛がキラリと輝き、彼女の全身から緑色の光が放たれる。光はリヒトを覆い、彼の体内に浸潤する。
「貴方の傍にはいつも私がいます」
私達はその幻想的な光景を眺めていた。ナオトの心の中は引き裂かれるような激情が満ち溢れていたに違いない。もし、彼女がコアでなかったなら、こんな結末は訪れなかったはずだ。彼女がもし星の操り人形ではなければ手を差し伸べ合い、命蝕に共に抗うことができたかもしれないのに。
リヒトの腕の中にはルイの姿はなくなっていた。代わりに輝く光の帯がリヒトを慰めるように煌いていた。