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はじまりの朝

「お…おはよう」


辿々しい口調で話しかけてきたのは高橋だった。朝に職場前で偶然出くわすことは初めてのことだった。


「あぁおはよう。昨日はありがとう」


部長の命令とはいえ、嫌々でも私のサポートで出向いてくれたことには感謝しても悪くはないだろう。ひんやりした空気の立ちこめる中、妙な緊張感が漂っている。


「何?怒ってるの?」

「いや、そういう訳じゃなくて」

「じゃあそんな顔しないで」


高橋の顔は梅雨の空より曇っているしジメジメしていた。彼の様子は昨日から明らかに変だ。こんな彼ならば、さすがに女子にモテないだろうと思う。

私達は二人で署内に入りエレベーターに乗った。気持ちの悪い沈黙が狭い空間に充満していた。


「何か言われたの?いちいち上司の苦言を真に受けてたら身が持たないって」


柄にもなく高橋を励ましてみる。私が上に立って彼を慰めることは妙だしあってはならないことのように思う。彼の内から染み出すような自信と知性があるからこそ、私は生意気な同期のこの男を信頼しているし、ある意味では尊敬している。

彼をここまで萎れさせたこととは、とてつもない天地がひっくり返るようなことに違いない。


高橋はしばらく俯いたままだったが、突然何かを思い立ったように顔を上げた。


「何?」


私はたじろいだ。その時の彼の表情はあまりに切迫したものであったからだ。


「今日、お前、上に呼ばれるよ」

「はぁ?」

「いいか。お前は逃げるんだ。ベルが鳴るからその隙に逃げるんだ」

「何なの?」

「俺はお前を信じてる」


この時はさすがの私もドキリとした。一般で言う「落ちる」一歩手前ぐらいだったと思う。彼の目は真剣だったし、真っ直ぐだったので、笑い飛ばすこともできないまま、私は動けなくなった。


エレベーターが開いた。

高橋は私より先に歩きだし、通常どおりに爽やかな挨拶をしながら自分のデスクについた。私は彼の言葉が腑に落ちないまま、ぼんやりとデスクの前に座った。


「滝島」


驚いたことに部長に呼び出された。高橋の予言は即効性があるらしい。私は重い腰を上げて、部長の元へ向かう。


「上が夜会の件で打ち合わせをしたいと言っている」

「上って特捜ですか」

「そうだ。すぐに会議室Dに来てほしいとのことだ」


会議室D。使ったことがない部屋だった。ここで働く人間は多いが、会議室Dを使ったことがある人間は少ない。あまりに奥ばったところにあるため、滅多なことでは使わない。

私自身、どんな部屋か全く知らない。


「何でそんなところでやるんですか」

「特捜が決めたんだ。俺は知らん」


早朝から会議に出向くのはあまり気分の良いものではない。しかし上からの命令には背けないのがこの警察社会だ。私は資料一式が入ったクリアファイルと携帯電話持って会議室Dに向かった。


会議室Dは伝説の通り、とんでもない場所にあった。エレベーターを2階乗り継いだし、さらには非常階段までかけあがる始末。私は何かの試験をされているような錯覚に陥っていた。会議室Dに入れば、部長が立っていて「よく到達できたね」と笑顔を浮かべているのではないかとまで考えていた。


しかし私の妄想とは異なり、会議室Dは偉そうな重役が5人ずんぐりと椅子に座っていて、その周りに警備員3人が待機していた。部屋に入ると一斉に私に視線を向けてきたので気まずい空気が漂った。


「お待たせしました。夜会担当の滝島カオルでございます」

「自己紹介はいい。早く座りたまえ」


座りたまえなんて何様だよ、と内心思いながら私は無造作に置かれていた粗末な椅子に座った。


「キミは夜会について何を知っているのかな」


一番左に座っている禿頭の男が口を開いた。


「正直あまり知りません。昨日夜会担当になったばかりですので」


そう、私は今日特捜と話し込むような経験もなければ知識もないのだ。

失礼にならない程度に私は「何故私を呼んだのか」という問いを含んでみる。


「箕輪と言います。私がキミを指名したんですよ」


次は右から2番目の男が言う。鋭い細い目をしている。

何もかも見透かしたような顔をしているこんな男に取り調べをされたくはないな、と思う。


「はぁ・・・光栄です。しかし何故私を?」


箕輪は意味ありげな笑みを浮かべた。


「キミが警察内で最も夜会に近いと思ったからだよ」

「夜会に近い?命触のことですか?」


彼は答えず、笑顔を崩さないまま私を見つめている。彼だけではない。周りの人間も私の観察をしているような気がしてきた。これは会議なのか?


「キミは夜会をどう分析する?」


ひょろりとした左から2番目の男が問う。私はありのままの自分の考えを告げた。


「彼らは忍海という架空の存在を崇拝しています。もはや宗教と化しています。法律では規制できないものへとなりつつあるかと」

「忍海ね・・・」

「何です?」

「放火犯の一人が忍海の正体を吐いたんだよね。こってり絞った甲斐があったよ」


特捜が忍海の正体まで到達していたことは衝撃的だった。その正体を聞いた時はもっとショックを受けることになるのだが。


「忍海とは何です?」


核心に迫ってみる。私も捜査する側の人間なのだから隠す必要もないだろう。

しかし彼らは躊躇っているように見えた。


5人で顔を見合わせ、共有している秘密を出し惜しみしていたので私のイライラは溜まる一方だ。


「何なのですか?教えて下さい」


箕輪が笑顔を崩し、警備員たちに何か合図を送った。3人の警備員達は無表情のまま私の周りに立つ。そして彼ははっきりと告げた。


「忍海の正体はキミだよ。滝島カオル」

「え?」


突然のことに私は目を丸くするしかなかった。


「夜会の被疑者はキミの名を告げた。滝島カオル様、とね。ご丁寧にキミの写真まで持ち歩いていたようだ。さぞかし崇拝していたのだろう」

「まさか!そんなわけないでしょう!」


私は声を荒げた。朝から呼び立てられ、辺鄙な会議室に連れてこられ、私の苛立ちは限界に達した。特捜が導き出した答えがあまりに突拍子もないものだったことが引き金となった。しかし私の声は会議室に虚しく響くだけで何の効果もなかった。


「先日、夜会の担当者としてキミを指名したのはキミの様子を観察するためだ。キミの監視役として高橋くんをつけた。彼の報告書には『お咎めなし』とかかれてあったけど、庇っている可能性もある。むしろ、その可能性が高い」


先日、顔色がみるみる悪くなった高橋を思い出す。そして早朝のあの妙な高橋の態度。全てに合点がいく。


おそらく、彼は何も知らずに私のサポート役として現場に派遣された。

あの時の電話で初めて、「忍海は滝島カオルだ。彼女の様子について報告書を送れ」という指示を受け、気が動転していたのだろう。


「キミは身柄を拘束させてもらうよ。危険な扇動者だからね」


箕輪の言葉に反応して2人の警備員が私の両腕を掴んだ。


「ちょっ・・・ちょっと待って下さい!」

「一介の幹部候補生の名前が凶悪犯罪者の口から飛び出すことはあってはならないんだよ。見知らぬ犯

罪者が何故キミのこと忍海であると言えるのかな」


箕輪の剥き出された牙は鋭く残酷に思われた。荒々しく犯罪者を食い散らしてきた正義の牙だ。


「私、知りません!ちょっと離して!」


頭はすっかり混乱していた。突然身に覚えのない商品を買っただろうと言われた気分だ。

さらに商品は信じられないほど高額でご丁寧に「商品を購入します」と私の直筆で書かれた同意書まで存在しているような危機的状況だ。


『キミは窮地に追い込まれる』


『逃げるんだ』


高橋の声が私の頭を揺らす。彼が私に警告していたのはこれだったのか。となると・・・。


ジリリリリと、けたたましい音が署内に鳴り響いた。すぐにその警報が火災報知器の音であると気づいた。


『防犯ベルがなったら逃げるんだ』


これは高橋の合図だと直感で思った。

高橋が私にまさに今逃げろと言っているということだ。耳を刺すようなうるさい音に呆気にとられ一瞬怯んだ包囲網を私は突破することにした。両腕にへばりついた警備員を振り払い会議室を飛び出した。


これが命触被害者の悲しみに追い打ちをかける冤罪の現状だ。


私は恐怖を感じるどころかこの理不尽な世界に憤慨しながら、非常階段を駆け降りた。


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