カタチ
2人が消えてからもチェキはしばらくそこに立っていた。気配が未だ残り香のようにそこにある。彼は送り出した彼らに心から健闘を祈った。
彼が日本に留まったのは彼の本意ではない。彼は予定通り最後までリヒトの傍で見届けたかった。だから星にアメリカに発てという命令を言い渡された時は、何の迷いもなく首を縦に振った。
コアにより日本政府が翻弄される中で、突然チェキはリヒトに呼び出された。そしてビルの屋上で夕陽を眺めながら、彼はチェキに「お願い」をした。
「日本に留まってくれないか」
そう言われた時、チェキは子供のように泣き喚きたい衝動に駆られた。地団駄を踏み、わがままを叫びたかった。いつも彼のお願いを忠実に叶えてきたチェキだったが、この時ばかりは素直に頷くことはできなかった。
大切な存在を守れない運命ならば、せめて覚悟と最期の時を見届ける。それが彼のささやかな望みなのに、日本に留まればそれは不可能になる。そんな些細な願いも叶えられないのか。彼はいつも奥底に隠してある心が暴れだすのを感じながら言った。
「理由を教えてくれませんか」
リヒトの言うことだからきっと理由がある。チェキの中に生まれつつある憎しみはそんなお願いをせざるを得ない状況を生み出した世界に向いた。星に向いた。
リヒトは私に青い月と聖女を星へと誘う仕事を依頼した。お願いはそれだけではなかったけれど、彼のお願いは先を見通した世界に必要なものと判断できるものだった。
「お前にしか頼めないんだ」
それがお膳立てだとは思わない。本当にリヒトは自分を信頼してくれている。その確信があるからこそ、その言葉はチェキの心に嬉しくも切なく響いた。
「了解しました」
「ごめん、チェキ」
チェキは真っ直ぐにリヒトを見られなかった。もし今、真正面から彼を見れば、チェキは泣いてしまうかもしれない。
夕陽のせいで、街は輝いて見えた。少し離れたところにある湖は金色に輝く鏡のように見えた。チェキはこの世界がリヒトの命を懸けるに相応しいものなのか、不安になる。
彼はこの世界に存在する「愛」を知らずに育った。物心がつく頃には自分はコアになっていて、当時4歳の彼は突然命蝕で青年の肉体を得てコアとなった。それが彼にとっての最適な形だったのだろう。
唯一自分に優しさを向けてくれたのがリヒトだった。精神が未熟で、何をやっても泣きべそばかりかいていた彼をそっと抱擁してくれたのもリヒトだった。
やがて彼は「愛」を知った。全てはリヒトに与えられたものだ。
それが失われる世界を彼はどのように生きていけば良いのだろう。「愛」が失われた世界がどれほどの価値があるだろう。
サンデの叫びがチェキの心に思った以上に深く突き刺さっていて、傷口が今更痛み出す。
『リヒト様のいない世界なんて耐えられないよ』
開いた傷口をチェキは見ないふりをする。それが彼にできる唯一の「愛のカタチ」だから。
「ねぇ」
ぼんやりしている彼にリヒトは微笑みながら呼びかける。
「そういえば、もう1つお願いがあるんだ」
「?」
少し悪いことを考えている顔だ。なんだろう?思わずチェキは眉間に皺を寄せてしまう。
「僕のこと、リヒトって呼んでよ」
チェキは拍子抜けする。そのお願いは彼が日頃からチェキに言っていたことで、唯一チェキが断り続けていたお願いだった。
「またそれですか」
「またって言うなよ。いつもお前が断るからだろ?」
チェキは首を横に振る。
「イヤです」
チェキがきっぱりと拒否した時に浮かべたリヒトの困った笑顔が思い出される。彼は失われようとしているリヒトのことを思い出すと引き裂かれるような傷みを感じた。誰もいない閑散とした集落を眺めながら、彼は深い溜め息を吐く。
背後のドアがウィーンという近代的な音を立てて開いた。
「どうしました?ノエル」
チェキは背後に扉の前に立つ弱った犬を見下ろした。彼と会うのは初めてではない。マリルが日記を手放す時に、一度顔を合わしている。
「分かっているのだろう?」
「えぇ。だから待っていました」
ノエルはフンと鼻を鳴らした。
「もう100年生きた。再構築は免れないらしい」
「再構築」
チェキはその言葉を指で辿るように口にしてみる。
コアの強制的な再蝕のことだ。いくら不死身の肉体とはいえ、年が経つことで傷み続ける。通常の傷ならば、小さな生物との再蝕で補うことができるが、培った傷は小規模な再蝕などでは補うことのできず、自分でも制御できない爆発的な再蝕を起こしてしまう。
滝島ハルキもそうだった。彼はある時自分の肉体の変調に気付いた。だから彼は妻も子供も捨てて、シェルターに独りで立てこもった。そして、再構築の間際で彼は青い刃に飲み込まれることを望んだ。誰かを巻き込み生き続けることよりも、世界の希望の糧となることを望んだ。
「貴方は私に飲み込まれることを望むと?」
ノエルは低い声で「そうだ」と唸った。
「ナオトにハルキの時のような悲しい思いをさせたくないのだ」
「数日前、忍海から貴方の申し出を聞いた時は驚きましたが、そういうことなら分かります」
チェキは跪き、ノエルに視線を合わせた。目ヤニのついたノエルの瞳を凝視し、彼は長い腕を伸ばした。
「ちゃんと別れを言わなくてよいのですか?」
最期に確認する。アメリカに彼らを送ってしまった以上どうしようもないが、訊かずにはいられなかった。しばらくノエルは押し黙っていたが、表情を変えることなく告げた。
「私は死ぬわけではない。お前と同化しカタチを失うだけだ」
「そうですね」
チェキは掌ををノエルの額に当ててぐっと力をこめる。通常の再蝕では炎やイケニエなどが必要だが、再構築の時ならばそう言った「後押し」は不要だ。
「世界は救われるだろうか」
最期にノエルはチェキに訊ねた。沈黙を撫でるような穏やかな声だった。
「私はそれを見届ける」
ノエルがそれを聞いて安らかな笑顔を浮かべたような気がした。
やがてノエルは淡い光を放ち始めた。光はチェキの身体を厚手の毛布のように覆い、身体に浸潤する。チェキはその温かい光を全て受け入れた。100年の悲しみと憎しみと愛の歴史がうねりとなって全て彼の一部となっていく。