日記26 Licht -光-
私がリヒトに再会したのは、無秩序な命蝕が起こってから3年、つまり私が38の時だった。
決して特別な再会ではなかった。ある昼下がり、私が東京の街を歩いていると、前方から茶色の革のジャンバーに黒いズボン姿のリヒトが歩いてきた。ただそれだけだった。
「リヒト!」
思わず叫んでしまったせいで、通りを歩く人々の視線が私とリヒトに集中する。今から思えば、私は恥ずかしいほど切迫していた表情をしていただろうなと思う。道行く人は、何事だと不愉快な感情を抱いたに違いない。数メートル前で立ち止まり、リヒトは一瞬驚いたように目を見開いていたものの、すぐにそれは微笑みに変わった。
私は彼に駆け寄った。そしてまじまじと彼を見た。
「そんなに見なくても、ここにいるって」
おかしかったのかリヒトは噴き出した。そんな変わらない彼に私は心から安堵した。
私には日本政府の命蝕対策委員会の鰐淵に用事があったのだけれど、リヒトを近くの喫茶店に誘った。「この近くに美味しい珈琲屋さんがある」という妙な口実を付けたけれど、彼は「いいね」と短く頷き、私の誘いに迷いなく乗った。
喫茶店は「ホトリ」という名前の老舗だった。あれから3年。最近日本で起こる奇妙な現象のせいで、私達は日本に留まりその調査を続けていたため、日本の店にも詳しくなった。
店内は若干暗い。木をベースにした内装で、無秩序に多国籍な装飾品が飾られている。おそらくマスターの趣味だろうが、あまりの統一性のなさが逆に新しい文化を生み出しているようだ。
「久しぶりだね、マリル」
彼はホットコーヒーを口に運びながら言った。
「変わらないわね、リヒト」
お世辞でもなんでもない。彼は本当に変わらない。彼はコアだから。
そんな私の言葉を彼は笑顔のまま受け止めた。
「マリルも変わらないね。これはお世辞だけど」
嘯く彼は、子供のようだ。目尻に皺ができた女性に「変わらない」と堂々と言う彼はとんだ無礼者だ、と思う。私も、彼も声を合わせて笑った。
「何をしてたの?」
私の質問は「今日」の話でも「今さっき」の話でもない。この「3年」の話だ。リヒトもその意を汲んだのか、少し困ったような顔をしている。
「いろいろあったんだ」
「ちゃんと話して。貴方は勝手にいなくなったのよ。説明する義務はあるわ」
「そうだね。ちゃんと話すよ」
リヒトは窓の外を見る。何かあるのかと思ったけれど、行き交う人々がいるだけで何もない。
「僕は、ずっと逃げてた」
逃げていた?何から逃げていたと言うのだ?
「死にたかった」
彼はぽつりと呟いた。私の心を貫くような言葉だった。
「でも僕は、死ねない。コアだから」
そうね。私は頷くしかなかった。
「途方に暮れてた。世界は色を失い、モノクロの世界、灰色の世界だ」
淡々と語る彼に口を挟んだ。
「コアだって、ちゃんと生きられる。確かに大勢の犠牲に心を傷めるのも分かるし、両親のことも分かるけれど、逃げたって仕方ないわ。ノエルもハルキさんも、命蝕に抗うために一生懸命生きてる。それは貴方だって知ってるでしょ」
命蝕でコアになったことを嘆くだけでは、何も始まらない。それは私の周りの人がいつも教えてくれることだ。私の言葉をリヒトは真剣に聞いていた。
しかし、彼は悲しそうに笑うだけだった。
「そうだね。彼らは、ね」
私はリヒトの様子に不穏な空気を感じていた。
「僕は彼らとはちがう。僕には自由なんてない」
「?」
「あれは、3年前のあれはね、星の図った壮大な実験だったんだよ」
私は無表情のリヒトを見守っていた。そうするしかできなかったのだ。
「炎とイケニエがあれば、小規模な命蝕が起こせるんだ。それには7年なんて時間はいらない。星はそのことを僕で『試した』んだ」
私は息を呑んだ。小規模な命蝕。私が日本に留まっている理由がまさにそれだ。
あれから3年。7年に1回起こるはずの命蝕はすでに5回も起こっていた。
「実験が成功した今、星は命蝕を無秩序に起こしている」
「炎とイケニエは・・・?」
私はその質問をするべきではなかった。好奇心は時に残酷な答えを招く。
「僕が用意している。僕は星のために創られた下僕だから」
リヒトの声は穏やかだった。もう諦観しているようにも見えた。
「僕もそんなことをしたくない。でも僕の脆い意志など踏み潰して星は僕に命じる。僕は夜、星に意識を奪われる。気がつくと僕はどこかで巨大な炎を猛らせ、誰かの命を奪っている。その繰り返しさ」
「そんな・・・」
「さっきマリルは僕を変わらない、と言ったけれど、僕は変わっちゃったよ。冷徹な怪物がここにいるんだ」
そう言ってリヒトは自らの胸を指差す。心の中に、と言いたいのだろう。あまりの悲しさで私は思わず泣き出しそうになるが、ぐっと堪えた。本当に泣きたいのは目の前のこの青年のはずだ。
「そんな顔しないで。ここまでは死にたかった過去の僕の話だから」
彼は気丈な様子で手をひらひらさせて、笑った。
「こんな僕でも生きる意味を見出したんだ」
自分の子供が「将来の夢」を宣言する時はこういう気持ちなのだろうか。私は彼の僅かな瞳の輝きに救いを感じた。
「無秩序な命蝕で生み出された者達。僕と悲しみを共にする者達。彼らを救えるのはその傷みを知る者だけだろう?」
「リヒト・・・」
「僕が彼等の光になるんだ」
彼はそう言って笑った。その瞳には輝きに満ちていたけれど、憂いも絶望も含まれていた。しかし、私はそれを見ない振りをした。
「そういえば、ナオトはどうしてる?」
突然、リヒトは話を変えた。あれほどまで溺愛していた弟の近況を本当は真っ先に聞きたかったに違いない。
「ナオトは・・・」
「怒ってる、よね?」
彼は再び冷えた珈琲を口に運んだ。私も乾いた口を潤したくて、珈琲に手を伸ばす。
「ナオトはあの後、青い刃と契約を交わして、正式に刀の所持者になったわ。そして星を滅ぼすことに躍起になってる。貴方を許すには、貴方と向き合って話さなければいけないでしょうね」
「そっか」
ナオトは両親ごと村を飲み込んだリヒトを憎んでいるように見えた。彼の話をすれば、極端に声を荒げ、不機嫌になる。
「また、ここで3人で会いましょう。そうすれば・・・」
「もう、会うのはこれで最後だよ。マリル」
彼は言葉を遮ってそう言った。
「もう僕には会わないほうがいい。僕はもうマリル達の敵なんだ」
「敵だなんて」
「星はまだまだ命を欲しがっている。僕がこれからどれほど手を汚すか分かるだろう?」
彼は立ち上がり、1000円札を置いた。
「ナオトが、あの刀でいつか僕を浄化してくれる。それが分かっただけで僕は幸せだよ」
去り際に彼は微笑んだ。その表情が美しくて、私は見惚れるように彼の背中を見送った。
読んでいただき、ありがとうございます。
あと、日記編、長々とすいません。
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