日記25 契約の時
私は夢をみた。
暗闇の中でリヒトが立っている。その目はどこか虚ろで、光を失っているように見える。
「リヒト」
私が彼を呼んでも彼は反応しない。急に遠い存在になってしまったような気がした。
やがて、彼は焦点の合わない目をこちらに向けながら、何かを語った。まるで音声のないテレビを見ているようだ。
「どうしたの?リヒト?」
彼は壊れたゼンマイ仕掛けの人形のように、ひたすら何かを言っている。何度も、何度も同じ事を繰り返しているのが分かった。けれど、何を言っているのか分からない。
私の声は言葉の伝わらないもどかしさで、自然と大きくなるが、それは暗闇に吸い込まれるようにして消えてしまう。彼には届かない。
私が目覚めた時、私に寄り添うようにしてノエルとナオトが眠っていた。
「マリル、おはよう」
嫌な匂いが立ち込めた場所で、私は横たわっていた。それを見下ろすようにしてハルキさんが立っていた。
「ハルキさん?」
私は起き上がろうとするが、突如眩暈が私を襲って私は再び転んだ。
「無理はしないほうがいい」
「私・・・」
夢か現か判断し難い。あの炎に包まれたことも今となっては夢であったかのように思える。記憶が呼び起こされるのを拒否している。
しかし、ハルキさんはその私の防衛反応を破り、残酷な現実を提示した。
「マリル、昨夜命蝕が起こったらしい」
「命蝕・・・?」
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
私はそれを徹底的に否定する術を知らない。
「でも、まだ命蝕の年じゃないわ」
私は弱弱しく唯一の否定の理由を述べた。しかしその脆い理由など踏み潰してしまうような情景が目の前に広がっている。
燃えた建物の瓦礫、炭。それを囲うようにして大地の上にただ洋服が散らばっている。ノエルという名のコアが生み出された時と同様に。私は胃液が喉元を伝うのを感じた。
「そんな・・・」
すぐに私の脳裏に蘇ったのは、リヒトの消えそうな言葉だった。
『僕、食べたんだ』
リヒトは、あの時コアになってしまったのだ。何故?命蝕の周期は一体何故狂ってしまったのだろう?
あの悲しそうな、いつ壊れてもおかしくないようなリヒトの姿が目に焼きついている。私が初めて見た彼の涙が、古い呪いのように刻み込まれている。
「俺は炎の中で目を覚ました。リヒトに背負われて脱出している最中だったよ」
「彼は?」
ハルキさんはゆっくりと首を横に振る。
「リヒトは何も言わずに走り去ってしまった。少し追いかけたが、森で見失ってしまった」
「そっか」
「あいつが全てを飲み込んだ。リヒトはコアとなってしまった」
村民の命を全て飲み込んだリヒトは、あの時泣いていた。その中には彼の両親も含まれている。身を斬られるような罪悪感に襲われているに違いない。
「う・・・」
ナオトがゆっくりと目を開けた。
「ナオト?」
この凄惨たる光景を彼に見せるのは、あまりに酷なことに思えた。14歳にして孤児。両親は最愛の兄に食われたと知れば、彼は精神を崩壊させてしまうかもしれない。
気付くと私はナオトを抱きしめ、胸に顔をうずめさせていた。この光景を見せたくない。このまま何も知らないまま、ナオトには真っ直ぐに生きていてほしい。
そんな私の願いが自然と彼を強く抱擁させた。
「・・・どうしたの?マリル」
乾いた声でナオトは訊ねる。そして続ける。
「誰かを抱きしめたこともないくせに、そんなこと、しなくていいよ」
その口調で状況は思わしくないことが分かった。
「知ってるよ。兄貴のことも、両親のことも」
噴き出したように涙が溢れてくる。こんなことをしていても、何の気休めにもならないというのに。無力な自分を心から恥じた。
世界で最も穢れのない聖域が汚されたような、絶望があった。この真っ直ぐで純真無垢な少年の心に歪みが生まれたことは確実だった。
「この思いをどうすればいいんだろうね。マリル」
「ナオト・・・」
私の腕の中で、ナオトは力なく笑った。
「命蝕で生み出されるものが、こんなにもどうしようもない感情だなんて、思わなかったよ。あんなに旅をしたのにね」
ナオトは泣かなかった。声は擦れていたけれど穏やかで、それが一層私を心配に駆り立てた。
私は燃えた社の中で青く光るものを見た。驚いたことに、瓦礫の中から這い上がるように刀はゆっくりと宙に浮いた。輝く青い光を放ちながら、ふわふわと浮いている。まるで生き物のように見える。
「ナオト・・・。あれは」
ナオトは視線を輝く刀に向けた。そしてまるで催眠術にかかったように彼は光に向かって、ゆっくりと歩き出し、浮かび上がった刀の前に立った。
ナンジノツヨイオモイヲウケトッタ
私にはそういう声が聞こえた。それ以上はよく聞こえなくて分からないが、ナオトには何かが聞こえているらしい。
やがて、ナオトは瞳を閉じたまま動かなくなった。声に耳を傾けているようだ。
「分かったよ。契約するよ」
やがて瞳を開けて、彼ははっきりとそう言った。
その瞬間、刀は鋭い青い光を放った。そして浮かび上がるのを止め、ナオトの手元に落ちた。
「ナオト・・・」
「俺は、この刀で命蝕を止める。もう、俺しかいないんだ」
ナオトは手に握り締めた青い刃を見つめながらそう言った。