もう1つの夜の話
「美しい月だ」
青年はビルの13階の応接室にいた。古そうな壷や刀が飾られており、威厳を見せつけることに執着する人間の愚かさがうかがえる。
一方で窓の外の淀みなく輝く満月は壮大で優雅だ。
「そうですね。世界中の人が眺め、その美しさに嫉妬していることでしょう」
青年の前に立つグレー色のスーツの男は媚びた笑顔を浮かべながら、彼に賛同した。
「月の美しさを心底羨む者は少ない。ましてヒトにそんな美の理解があるとは思えないな」
青年はチラリと男を見る。気持ち悪い不自然な笑顔には顔をしかめるしかない。
「世界は順調に変革の時を迎えている。お前たちが働いてくれるお陰で、聖母を迎えるに相応しい世界が築かれつつある。聖火と尊き命により、天より神が降臨し、大地に眠る聖母と再会する」
青年は不敵な笑みを浮かべる。その時が来れば、この浅はかな人間も消えてなくなる。その意味も知らず目の前の強大な存在にただ舌を巻く男に対してほんの一掴みの哀れみを抱く。
「ところで」
青年は窓越しに月を眺めながら言う。
「例の女はうまく動きそうか?」
「まだ女の動向は確定はしておりませんが、警察は必ず貴方の思うとおりに動くでしょう」
「そうか。それは良かった」
警察が動けば女は必ず動き出す。それには確信があった。
一方で男は青年の背中を恐れていた。自分よりも遙かに若く小柄な青年の背中は誰よりも大きく感じた。
青年が人間ではなくそれを越えた大いなる存在であることは自らの脳に恐怖として焼き付いていた。
「あの女に興味があるのですか?」
圧迫感のある沈黙に耐えきれず、男は口を開いた。彼の声は震えていた。無論、青年は彼の恐怖を知っていたので気にしなかった。
「お前はよく働いてくれたから教えてあげよう。彼女は私が最も愛し、最も憎む存在だ」
「え?」
「彼女は何も知らない。まずは彼女を安全な小屋から出してやる必要がある」
青年は颯爽と振り返った。
それと同時にひやりとした汗が男のを頬を濡らした。青年は美しかった。月に照らされた白い滑らかな肌と鋭い眼光を秘めた大きな瞳。男はその美しい瞳で虫けらを見るように見下される。
「全てを知った彼女はどうするだろう」
青年は笑う。
合わせて男も笑う。
男の頬は明らかに痙攣していたが、なんとか笑顔と判断されうるところまで頑張ったつもりだった。おそらく、不自然な顔をしていたに違いないが青年の笑顔は揺らぐことなく男に向けられていた。
変化は顕著に、そして唐突に訪れた。
刺すような鋭い眼光は和らぎ、青年は呆然とその場に立ち尽くしている。
「リヒト様?」
青年は、急に我に返ったようにぶるぶると首を振った。そこにいたのは、先ほどの強烈な圧迫感を放つ偉大なる存在とは異なり、ただの美しい華奢な青年に見える。
「お前、僕とずっとここで何を話してた?」
「?」
「命があってよかったな」
訳の分からない状況だったけれど、男は再び引きつった笑顔で「はい」と答えた。