日記16 井戸端会議
「マリル、おかえりなさい」
すっかり夜になり、私を国民宿舎の玄関で一番に迎えてくれたのは、デボラという私の「子供」だった。4年前カンボジアで出会った彼女は命蝕孤児であり、私を母と慕ってくれている子供の1人だ。
「ただいま。いい子にしてた?」
私が英語で問うと彼女ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「今日はハルキ達と東京タワーに行ったわ」
彼女は自慢げに私に言った。そして「マリルも来ればよかったのに」とぼやいた。
「私もデボラと行きたかったわ。また行きましょうね」
私は笑顔で答える。彼女も笑顔で応える。
私の声が聞こえたからか、奥からハルキさんが現れた。白いティーシャツにジャージ姿のハルキさんはお風呂上りの様子で、随分くつろいでいたらしい。
「マリル。おかえり」
ハルキさんは肩にかけていた濡れたタオルを外しながら言った。
「子供達の面倒を見てくれてありがとう」
私が感謝の言葉を述べると、ハルキさんは笑みを浮かべたまま不釣合いな眉毛を少しひそめながら首を振った。
「検査は陰性だったみたいだね」
当たり前のことを訊ねるハルキさんの顔はにやけている。
「そうだね」
「それで?キミの予想は当たったのかな?」
昨夜、青桜に対する私の見解について語ると告げていたのをハルキさんはしっかりと覚えていた。話すと約束したからには私には語る義務がある。
子供達の前で話すことも憚られたので、私はハルキさんとノエルを国民宿舎の外に誘い、入り口の花壇の縁に座って話すことにした。
「3番目のコア、桜は5年前の命蝕直後の調査では言葉を発することはなかった。話せなかったわけではないのかもしれないけれど、今回は私に語りかけてくれたの」
「喋る桜か」
喋る犬に喋る桜。この世はなんでもアリになりつつある。
「桜は私の育ての母を飲み込んだと聞いたから・・・私は今度は私と話してくれるような気がしたんだ」
自ら進んで飲み込まれた母の気持ちを考えると胸が締め付けられるような気持ちだった。しかし、それをできるだけ顔に出さないように努めた。今は感情的になるところではない。
「私は桜と語った。桜は命蝕の時、星の夢を垣間見たみたいなの。ハルキさんと同様、青い刃に貫かれる夢。やっぱり青い月の正体は、鋭い刃みたい」
「それでは青い月という武器で星をぶった切るということになるようだな」
犬がぶった切るという物騒な言葉を唐突に使うので思わず笑いそうになるが、堪えた。
「それだけじゃないの。青い刃の在り処が分かったかもしれないわ」
「どういうことだ?」
「鰐淵が青い刃の在り処を教えてくれた。東京にあるみたい」
訝しげな表情で私を眺めるハルキさんは黙ったままあれこれ思考を巡らせているようだ。
「東京だけど、東京郊外の森にあるみたい。管理されていない立ち入り禁止区域みたい」
「それに入ったら捕まるんじゃないだろうな?」
ぼそっと訊ねるハルキさんに私は首を横に振って応える。「それはない。森の奥には刃を守る人達がこっそり住んでるって言ってたわ」
ぽつりとノエルが呟く。
「信じて良いのかな」
ノエルの心配もわからなくもないが、私は翌日にはそこに向かうことを心に決めていた。時間はあまりない。もうすぐ4回目の命蝕が世界を襲う。こうしている間にも「姿の見えない存在」による品定めは行われているのだ。
「信じよう。時間も手がかりもないし、そもそも日本政府が俺達を騙す理由がない」
傍らにいたハルキさんが言った。無表情で何を考えているのかよく分からないけれど、ハルキさんに「Go」と言われれば、私も胸を張って行動できる気がした。
「じゃあ、明朝にここを出よう。早い方がいいな。マリル、場所は分かってるんだろう?」
「場所は分かってるけど・・・入れるか分からない」
「どういうこと?」
「彼らは外から完全に閉ざされた世界で過ごしている。言わば鎖国状態なの。下手すれば殺されるからね、って言われちゃったわ」
ごくりとノエルが唾を呑みこむのが聞こえた。コアは死ぬことはないのだから恐れることはないだろうに。
「やばいな」
ハルキさんの弱弱しい声が聞こえた。
「今日、眠れないかも」
ハルキさんは頭を抱えている。そんなユーモアにも聞こえる言葉が私の疲れた心を癒した。