日記13 日本からの使者
33になる頃、私はノエルとハルキさん、そして思春期を迎えた子供達を連れて日本に来ていた。
2度の命蝕を味わった日本は命蝕大国である自覚が芽生えたのか、他国に比べ政府が積極的に命蝕対策を打ち出すようになっていた。
今回私が日本に来たのは他でもない、日本政府からの通達がきっかけだった。住所不定、かつ固定電話はおろか携帯電話すら持っていない私に連絡する術は簡単ではなかったはずだ。当時私はアメリカ西部のスラムにいた。
「忍海マリル様ですね?」
町中を歩いている時に突然声をかけられた。声をかけたのは日本人男性でグレーのスマートなスーツを着ていた。
「いきなり失礼いたしました。私は日本政府からの使者で鰐渕と申します」
名前がワニブチと言うわりには、獰猛なワニの要素は一切なさそうなひ弱そうな男だった。しかし彼の手元にある名刺は彼を幾分か強そうに見せた。「日本命蝕対策委員会」と左上にゴシック体で書かれてある。
「はぁ。どうも」
私は突如現れた使者に戸惑いながらも、丁重に頭を下げた。
「少しお話があるのですが」
そう言って、鰐渕も小さく頭を下げた。2人で頭を下げ合う妙な光景だった。
私達はとりあえず近くの公園に移動した。公園と言っても閑散とした雰囲気の立ちこめるただの広場だ。そこの隅に申し訳程度に設置されている赤いベンチに2人腰掛けた。
「私に何の用でしょう?」
「あなた方忍海の活躍の話は日本にまで届いています。命蝕被害に苦しむ孤児達を救って回っているとか」
「まぁそうですね」
「素晴らしいことです。私達日本人はこれまで2回の命蝕に苦しみました。しかし、3度目の命蝕が日本で起こった時、私達はようやくその全貌に気付いたんですよ」
「全貌?」
彼らが全貌を理解するには早すぎると思うが。
「命蝕は失われるだけでなく、産み出すものであると。生命の喪失は過程に過ぎないのですよ」
溜息は出なかったけれど、あまりに遅い認識に呆れた。まぁ仕方ないと言えば仕方ない。産み出された者達は私と共に行動し、歴史の表舞台に現れることを拒んでいる。
「『コア』となる存在がいるのです」
「へぇ…」
ここで適当な相槌がなければ疑われるはずだ。
「3度目に生まれたコアは桜の木でした」
勿論私達は知っていた。命蝕の跡地に調査で訪れないわけがない。
「桜の木が何故コアだと分かったのですか?」
柄にもなく尋ねてみる
「遺伝子、組み換えによりグチャグチャになってました。桜の木が一瞬で品種改良された感じで」
「そうですか。で、本題は何です?まさかそんな話をしに遙々来られたわけではないでしょう?」
一瞬鰐渕の表情が強ばったけれど私は気にせず続けた。
「私を見つけるのにもさぞかし苦労されたでしょうし」
「そうですね。では本題に。当時はその壮大な姿を目に留めようと多くの方が来られたのですが、今桜の木の観覧は閉鎖しています。ある時、桜が美しく青に染まったのです。青く染まった理由はすぐに分かりました。また1人、新たにコアが取り込んだようです。消えたのは」
なんだか嫌な予感がした。そしてこういう予感はやはり的中する。
「青木ヤヨイ。貴女の里親ですよ」
「そう…ですか」
胸の奥で鉛玉が沈んでいくのを感じた。決して忘れていたわけではないけれど、改めて名前を聞いた時、鮮明に彼女の顔が思い浮かんだ。
「これ以上コアの脅威を野放しにはできません。彼らが再び命蝕の種と成りうるならば絶やさなければならない。私はこんな形をしていますが、政府よりコアを殺害するための研究を一任されています」
コアを殺すというのならば、ノエルも、ハルキさんもコア。バレたら終わりだ。
顔色が変わる様子を鰐渕は慎重に観察している。抑えようとすればするほど、体からその秘密が滲み出しそうな気がした。
「実は私は貴女が1人目のコアだと思っています」
「何ですって?」
鰐渕は眼をぎらつかせながら、私を観察する。反応を吟味しているのだろう。
「忍海マリルさん。貴女の素性は分かっています。貴女が生き残りの聖女であり、病院を抜け出したという過去も。もし貴女がコアだというならば我々は貴女を消す必要がある。貴女は世界の脅威だから」
「なるほど。それは確かに疑われても仕方ないですね」
疑いを私に向けるのは正常な判断だと思う。しかし残念ながら間違いだ。
「そこで日本に来ていただきたいわけです。貴女も要らぬ疑いは避けた方が今後動きやすいでしょう」
「そうですね。ただ、当時随分DNAの検査は受けましたが」
「イギリス政府が隠している可能性も捨てきれませんので」
最初の第一印象は間違いだったな、と私は思った。鰐渕は立派で獰猛なワニブチだった。彼の目は鈍く光り、真っ直ぐに獲物を捉えている。これは受諾しないと疑いを晴らす前に殺されるな、と直感で思った。
「分かりました。ならば日本に参ります。ただしお願いがありまして」
「何でしょう?」
「その青き桜を見せていただけませんか?試してみたいことがあるのです」
鰐渕は一瞬怪訝そうな顔を浮かべたけれど、すぐにひ弱な表情に戻った。
「貴女が日本に来て正式に検査を受けて下さるのならば構いませんよ。しかし検査結果が陽性だった場合はその前に貴女は隔離しますから」
私は彼に1週間後に日本に向かうことを約束し、そして今に至っている。
「マリル」
物思いに耽る私に声をかけたのは、ハルキさんだった。日本政府に用意された国民宿舎で、私は明日の身支度をしていた。与えられたのは20畳の広間一室でその中に20人ほどが寝るのだからなかなか狭い。
「すまない。俺達のせいで…」
「検査を受けるのはハルキさんのせいじゃない。私の予想が確かなら…」
私はそれを言いかけてやめた。
「確かなら?」
「それは秘密。あとで言うよ」
明日は単身で国立研究所に向かう。ハルキさんやノエルは子供達を連れて観光でもしてもらうつもりだ。もし私がここで話せば彼らは必ず私の後を尾けてくる。彼らは正体を決して知られるわけにはいかない。
「頼むから危ない真似だけはしないでくれ」
「私はもう三十路過ぎたおばさんだよ。いつまでたってもハルキさんは私を子供扱いするのね」
私がそう言うとハルキさんは頬をポリポリと掻いた。改めて私は歳をとったのだと思い直す。ハルキさんはあの頃のままで私は随分変わってしまった。あの頃のように危険を冒す若さはもうないし、私にも守るべき子供達ができた。
「まぁ私は大丈夫。無理はしないから」
私はそう言って布団に潜り込んだ。ノエルは部屋の隅で分厚い本を読んでいる。しかし耳が良い彼には私達の会話は筒抜けだったに違いない。
いつも日本に来ると、畳の香りが懐かしかった。今回も同様だ。