日記12 星の声を聞くもの
ハルキさんは3日経っても目覚めなかった。
その期間、民宿の女将さんもさすがに寝たきりの男性を連れ込む若い娘を訝んでいるだろうと思ったけれど、彼女が特に何か行動を起こすわけでもなかった。
「旦那の調子はどう」と1日に一度くらい訪ねてくるだけで、通常の客と同様に食事とお風呂を用意してくれた。
とはいえ、ハルキさんは死んだように眠っていたので少女が宿に死体を持ち込んだのではないか、と内心思われていても不思議ではない。
4日目の朝、私が洗面所から部屋に戻った時には布団にハルキさんの姿はなかった。
布団にはまだハルキさんの体温が染み着いたように残っている。
「ハルキさん??」
私は慌てて宿の外に出た。
油断していた。
ハルキさんが目覚める時は要注意だと自身に言い聞かせていた。
全てを知ったハルキさんが何をするかは分からないからだ。
重すぎる罪悪感により私のように死を選ぼうとする可能性だって大いにある。
しかしその心配は徒労に終わった。外に出ると宿の正面に立ち、悠長に背伸びをしているハルキさんの背中があった。
「ハルキさん?」
私が呼びかけると彼は振り返った。
相変わらず個性的で魅力的な顔だな、と思う。
「おはよう。マリル」
病室の時と変わらないハルキさんの姿があった。
いや、ほんの少し若返ったようにも見える気もする。
声に張りがあるので、全快したのかなと安心した。
「おはようございます。ハルキさん」
私は激しく脈打っていた心臓を落ち着け、笑顔で挨拶をした。
「久しぶりだね。マリルは随分大人っぽくなったかな」
「もう成人ですから」
「そうだったね」
民宿の前に広がる雑木林を2人で歩きながら他愛ない世間話と私の身の上話をしばらく続けていたけれど、さすがに現実から目を反らし続けるわけにもいかない。
話は私から切り出した。
「全て解ったんですね」
ハルキさんの足が不意に止まった。
「そうだね。全て知っている」
深い太いハルキさんの声がいつもより強靱なものに感じる。
「ハルキさん。ごめんなさい」
私が足を止めて頭を下げる。
ハルキさんがどんな顔で私を見ていたのか分からないけれど、彼はしばらく押し黙っていた。
「マリルが何を謝っているのか知りたい。命蝕を起こしたことなのか、それともそれを黙っていたことなのか」
私が顔を上げると、緊張に顔を強ばらせたハルキさんが立っていた。
去る前日に病室で話した時にこの顔を見た気がする。
厳しさと静けさを兼ね備えたような口調で私に問う。
「両方です」
私の答えにハルキさんの顔面は緩んだ。
「だったら謝るのは後者だけにしてくれ。命蝕のことに関してはマリルのせいではないさ。誰にも分からなかったことだ」
「しかし、アレを生み出したのは私です」
「そうだとしても俺に謝るのはおかしい」
ピシャリと的確な指摘をするハルキさんは今も健在のようだ。
「俺もまた咎人だ。罪無き多くの命を喰ってしまった。自らの欲望によるものではないにしろ、理不尽な犠牲の上に立つ存在となってしまったわけだ」
ハルキさんの表情からは罪悪感や恐怖は感じ取れなかった。
内面にどれほどの激情を秘めていることだろう。
「あの時、命蝕が起こったとき、俺は記憶も思考もめちゃくちゃになった。大都会の人混みの1人1人の声が聞こえるような感覚だよ。俺は怖かった。意識が朦朧としていて、自分が何者かも見失いそうになっていた。自然と人のいない所へと歩き続けていたよ」
だからハルキさんはこんな山奥にたった一人でいたのか。それにしても、あまりに都内から離れている。随分歩き続けたのだろう。
かける言葉が見つからない。
「夢を見てた」
ハルキさんがその大きな瞳に青い空を映しながらぽつりとこぼした。
「青い月の夢」
「青い月?」
確かにハルキさんは譫言でその名を口走っていた。
星自身が告げた未来の脅威。それは私達の希望でもある。
「俺の手の届く場所に小さな青い三日月が浮かんでいる。そしてそれが俺の身体を貫く夢だ」
「身体を貫く?ハルキさんの身体をですか」
「そうだ。あまりにリアルで鮮明に覚えている。今の私を構成する生命の記憶だったのかもしれないね」
青い月の記憶。
それを持つ者はこの世で1人のはずだ。
「…ちがうと思います」
「ちがう?」
「青い月は過去の記憶ではなく、未来に登場するはずだから」
私は友人について洗いざらい話した。
自然と秘密を共有できたからか、時の流れのせいか、何の抵抗も感じなかった。
友人が口にした青い月のことをハルキさんは興味深そうに聞いていた。
「考えられるのはハルキさんがコアとして生まれ変わるその期間にアレと一瞬交わった、ということです。そしてその瞬間アレの眼を借りて未来を垣間見た」
「甚だしく根拠のない仮説だけど、充分有りうることだね」
ハルキさんは笑いながら言った。
「マリルの話を聞いて思ったけれど、キミは常にアレに監視されているということなのか?」
「分かりません。ただ近くにいる時はすぐに分かります。姿が見えなくても気配で感じ取れる。きっと私がアレに選ばれたのは、生まれつき私に知覚する力が備わっていたからかもしれません」
私が数年かけて考えていたことだった。
命蝕の起こる前のことを思い返すと、アレの声を聞けたのは私だけで周りの人間はその存在に全く気付かなかったはずだ。
「アレが本人の言うとおり星の思念体そのものだというならば、キミは星の声を聞いたということになる」
「星の声、ですか」
アレの声を思い出すと、臓物をかき混ぜられるような不愉快な感覚が蘇る。
「マリルはこれからどうするんだ?」
「まだ分からないけれど、青い月を探したいと思っています。それが星を止める手がかりだから」
あてのない旅になりそうだな、と溜息を吐きそうになるけれど、ぐっと堪えた。
自然と2人の足は宿へと向いていた。
しばらくハルキさんは口を開かなかったけれど、宿が見えたところで立ち止まり声を発した。
「俺も行く」
「え?」
「俺も命蝕を止めたい。こんな悲しい思いが続くのはゴメンだ」
思わずはっとするほど、ハルキさんの横顔は真剣な表情で精悍な孤狼のように見えた。
「ダメかな?」
そう言って柔らかな微笑を浮かべるハルキさんに私の心は幾分かほっとした。
それから私達は青い月の正体を探るべく、世界中の命蝕の爪痕を調査しながら人々に聞き込みを開始した。
勿論これが本当にただの青い月ならば、我々の成すべきことなど何もない。
月は勝手に昇り勝手に沈むだけだ。
ハルキさんの言う不吉な夢を手がかりとするならば、青い月は紛れもなく私達を昇り、照らすだけの存在ではない。
肉を貫き武器となりうるものだ。
それがアレを滅ぼす唯一のものだというならば私はその僅かな可能性に賭けるしかない。
私は日々、歳をとった。
毎日毎日微かな軌跡を残しながら、老いていった。
多くの悲しみに立ち会い、私が考えうる出来る限りのことをやったつもりだ。
一方で傍らにいるノエルとハルキさんは歳をとらなかった。
進みもせず戻りもしない、寄せては返す波のように彼らの肉体は無限の時間に存在しているようだった。
私達は再び世界中を旅した。
荒れた混沌とした世界には想像を絶する多くの悲劇が生まれていた。
次第に孤児が増え私は彼らの母となった。
彼らも私達と旅を共にし、多くの悲しみに出会った。
人助けのために世界中を飛び回っていただけではない。
命蝕の調査、青い月の正体の探索などを兼ねていたけれど、こちらの方は思うように進まず停滞していた。
3度目の命蝕は私が27の時に起こった。
次のコアは桜の木だった。
多くの生命が失われたのは確かだが、問題はその命蝕の中心が日本の総理官邸の裏側だったことだろう。
当時の日本は命蝕被害者救済に追われ、それに関する研究には疎かったけれど、命蝕により政治家の命が奪われたことは日本にとって大いなるきっかけとなった。