日記9 遺言書
私はこの時すでに17歳になっていた。
ある日私の前に弁護士を名乗る端正な顔つきの女性がやってきた。
彼女は一礼した後、私に一枚の紙切れを手渡した。
「これは遺言書です」
ディスイズウィル、と彼女は英語の例文のように丁寧に告げた。
そしてその紙切れには震えた汚い字体で父の遺言が書かれていた。
『死んだら娘のマリルに全ての財産を譲ることとする』
驚きは一切なかった。
予め執事と父から内密に教えられていたことだ。
「貴女にこの遺言書の内容を伝えるかどうか、決定するまで随分かかりました」
命蝕が起こって3年以上経ったのだから、確かに随分時間がかかったものだ。
「貴女自身が1年間は廃人で話ができる状態ではありませんでしたし、何よりも貴女はこの一件の重大な参考人であり容疑者だったからです」
「私が命蝕を起こしたと?」
「そうです。少なくとも警察はその線で捜査を進めていたようですね。全ての原因は亡くなった貴女の父、忍海タツヤは大富豪であり、その周りには熾烈な相続競争があったことです。貴女だけが生き残った。それが警察の疑いの原因のようですね」
遺言書の内容よりも、そのことの方が意外だった。
イギリスの警察は随分頭が柔らかいようだ。
1人の少女が世界から命を奪ったという、そんなファンタジーを理解できるキャパシティはないと思いこんでいた。
「しかし、貴女にも分かるようにそんなことは絶対に有り得ない。次第にイギリスの警察も冷静に事にあたれるようになりました」
有り得ないことそのものが有り得ない。
心の片隅で呟きながら、私は顔の筋肉を極力動かさないように努力した。
「警察側の貴女に対する感情は憎き容疑者から悲劇の被害者へと変わりました。可哀想な貴女は亡き父親の形見を手に入れるべきだという声があがりました。しかし警察の一部では未だに貴女に対する疑いを持つ者がいたようで、そのような意見の衝突により膨大な時間を要しました」
女はコツコツとハイヒールの踵を鳴らしながら窓の方へと歩き、外を眺めた。
「ようやく先日その衝突が終息し、遺言書の開示が認められ、こうして貴女の元に私が出向いたわけです」
喉から手がでるほどほしかったものが、私に今手渡されようとしているのにも関わらず、あまり嬉しくないのは何故だろう。
顔がひきつり、心が沈むのは何故だろう。
それを受け取ることが私の身体に赤く光る熱した鉄を流し込むような痛みを感じさせるようになるとは皮肉な話だ。
しかし一方で頭の片隅では冷えきった氷の一部になった自分がいて、着々と計画を組み立てていた。
まず必要なことは捜索が始まる前に屋敷に帰ることだ。
屋敷に帰れば金がある。
遺言書は受理されあの屋敷は私のものとなっているのだから、持ち出すことも使用することも私の自由だ。
屋敷にあるものはあくまで財産の一部に過ぎないが、それ以外に必要なものはない。
私に必要なのは生活できるだけのお金だ。
私はある夜、ノエルと落ち合いこっそりと病院を出た。
今後、私を保護する大人はいない。
ならば私自身が知恵を使って生き延びるしか方法はないのだ。
私には成すべきことがあるのだから。
屋敷には誰もいなかった。
無惨にも何もかもがそのままになっている。
虚ろな絶望の記憶。
思い出すだけで吐き気を感じ喉元を胃酸が通り抜けそうになるが、それを抑えようとする自己防衛が働くのが分かった。
私は唇を噛みしめて屋敷に入る。
父の寝室は主を失い、その価値を失ったことを嘆いているように感じられた。
ただそこには豪勢なセミダブルベッドと図太い経済学に関する本の詰まった棚と壁を覆う古い色褪せた世界地図、そして冷却された空気だけがあった。
金庫が父の寝室にあることは知っていた。
それだけ彼は自身の子の本質を見抜き、疑っていたのだろう。
金に集り、過剰に媚びる人間を見抜く能力人より優れていたのかもしれない。
金庫が父のベッドの下から見つかった時それらの予想は確信へと変わった。
「マリル。これからどうするの?」
ノエルは無垢な顔を私に向けた。
円らな瞳はビー玉のようにキラキラ輝いている。
「世界を旅しようと思っている」
私ははっきりとそう告げた。
しかし、私のこれから成すことはノエルにとっては何でもいいことのようで、仮に私が金を使ってここで平和に暮らすと告げても喜んだに違いない。
「私は自分が何をしたのか、私が背負った罪を直接見つめたいんだ」
「罪…?」
「そう。私が起こした命蝕で膨大な悲しみを生み出してしまった。私は最初死んで償おうと思ったけれど、それじゃ誰も救われないって、ハルキさんが言ったの。私が出来ることが何かは未だによく分からないけど、それでも立ち止まるわけにはいかない。きっと、きっと私にしか出来ないことが存在する。私はそれをやるの」
悲しみを浄化する必要がある。
悲しみを根本から私が消し去る。
立ち止まっている時間はない。
「まずはどこへ行くの?」
「この国からは少し離れた方がいい。まずは…」
私は人差し指で壁の世界地図を指さす。
「アメリカに行こう」
脳裏に焼き付いた悲劇の様子が思い浮かぶ。
テレビカメラに向かって涙を流し、何かを訴える白人女性。
今生きているのかは分からないけれど、きっかけとするには十分だ。
私は必要な物資と金をリュックサックに入れて立ち上がった。