日記7 面会
扉の向こうには人影はなく、代わりにそこにいたのは灰色のハスキー犬だった。
急激に血液が逆流するのを感じた。
完治していない傷のカサブタを強引にめくられ血が吹き出すような心境だった。
目の前にいるのは私の罪の証にほかならない。
生まれ変わったノエルは若々しく、その毛並みの艶は以前の面影はない。
犬はほんの少し息を切らしながら私を見つめていた。
わかっている。
ノエルに罪はない。
だがこの複雑な心境をどう処理すればよいのか私にはわからない。
「マリル。会いたかった」
突然話しかけられたので、最初はノエルの背後に誰かがいるのかと思った。
「ノエルだよ。忘れてしまったのか?」
ついに薬の副作用が現れて幻覚まで見え始めたのかもしれない、と思った。
ノエルは目を伏せゆっくりと首を横に振った。
「先に言っておくけど幻覚じゃないからね。勉強したら話せるようになったんだ。マリルとお話したくて。本当に会いたかったんだよ」
無邪気な子供のような声をしていた。
お祭りに来たようにはしゃぐノエルは素直に可愛いと思うが、喉元に何かが引っかかる感じがした。
このままでは看護師に見つかってしまうので私はノエルを暗闇の病室に入れてドアを閉めた。
「マリルは何故ここにいるの?病気なの?」
ノエルは上目遣いで私を仰ぎ見た。
「いや、そういうわけではないの。私を使って大人達は命蝕の研究をしているのよ」
「命蝕の研究?」
「大人達は私に特別な命蝕に対する耐性があると信じている。でも私にそんなものは存在しない。ノエルだって知っているでしょ?私が事を起こした張本人なの。この研究に価値などない。これは科学で解決できるわけはないし、真実が大人達にとってあまりに絵空事だから」
ノエルは抑えきれない興奮のせいか、尻尾をグルグル回して話を聞いていた。
「マリルが解決に協力する必要はないじゃないか。命の凝縮などさせておけばいい」
ノエルは軽快な口調だった。
あっけらかんとしていて私が犯した罪の重大さを分かっていないようだった。
「僕はマリルと再会できて嬉しいんだ。でもマリルはあまり嬉しそうじゃない。なんだか怯えてるみたいだ」
的確な洞察力だ。
私は確かに怯えている。
私が起こした悲劇の責任と、悲しみに満ちた世界にいつ私という人格が押し潰されるのか。
そしてこの世界でどんな更なる悲劇が待っているのか。
全うに死にゆく命の運命をねじ曲げて、ノエルを生かしてしまったのは神の冒涜に近い行為だ。
失われるはずの命が失われることに耐えられなかったのは私の弱さのせいだ。
私には未来が真っ暗に見えた。
「ノエル。私には生きる価値なんてないのよ。もう死にたい…!」
私が何を言おうとノエルの眼の輝きは消えない。
目をクリクリと丸くして私をじっと見つめるだけだった。
「何を言ってるのか分からないよ。マリル。何故自ら死を選ぶんだ?マリルが死んだら僕が悲しむだけだ。マリルが死にたがる理由が全く分からないよ」
「ノエル。貴方はまだ生まれ変わって間もないから分からないかもしれないけれど、人には生きているだけで引き裂かれるような苦痛を感じることがあるの。私はたった16年生きただけで、そのことに気付いてしまった。私は開けてはいけない箱を開けてしまったんだわ」
私はパンドラの箱を開けてしまったのだ。
世界に恐怖や憎悪を巻き散らし、悲しみを生み出してしまった。
我ながら情けない話だと思うし、許せない話だと思う。
だから私は私自身に罰を下したいのだ。私は自分の心が冷えきっているのを感じた。
もう動くのを止めようとしている。
私はノエルとの会話に夢中で近付いてくる足音に気付いていなかった。
部屋の外にいる存在に先に気付いたのはノエルだった。
「マリル。外に誰かいるよ」
ノエルは焦るような様子もなく淡々と報告した。
私だけが一瞬焦ったけれど、もう手遅れだろう。
ノエルを隠せるような無駄なスペースはこの部屋にはない。
ガラガラとゆっくり扉が開き、そこに研究員の一人の男が立っていた。
男は神妙な表情のまま私とノエルを交互に見据えた後、フッと緊張の糸が緩んだように笑った。
「マリル。面会時間は過ぎているよ」
その男の名前など私は知らないが、研究員の中で一番若いということは知っていた。
おそらく25歳くらいだろうか。
その私が男に注目していたのは理由がある。
彼だけが日本人だったからだ。
彼の話す自然な日本語は私に故郷を思い出させた。
ゴツゴツした輪郭に、不釣り合いなまつげの長い大きな瞳と左右のバランスの悪い眉毛がセットになっており、個性的という表現がよく似合う顔だ。
しかし足が長く、背筋が真っ直ぐなので背格好だけ見るとプロのモデルのように見える。
「しかもやっと現れた面会者が喋る犬とは。なかなか面白いな」
「あの…いや…」
私が困惑している姿を暗闇の中で見つめている。
見透かしたような男の瞳は暗闇にも対応しているのかもしれないとさえ思った。
「マリル。俺はキミを咎める気はない。しかし俺にはキミという人間に関わりがあるこの犬に興味がある。命蝕に関わるキミに関わる喋る犬。命蝕のメカニズムの参考になるかもしれない」
そう言って男はノエルの方を見た。
「研究員さん。あの…」
「滝島だよ。滝島ハルキだ。もういい加減研究員さんと呼ぶのはやめてくれないか。ハルキと呼んでくれ」
彼は首を振りながら照れ臭そうに笑った。
その姿が予想に反して何とも優しげな雰囲気だったので私は驚いた。
彼に私達を咎める気は本当にないのだろうか。
「ハルキさん。この犬は確かに私の犬です。でも…」
「分かっているよ。彼に酷いことはしない。約束するよ」
ハルキさんはしゃがみ込んで、ノエルの目線に合わしてから、そっとノエルの背を撫でた。
飛びかかりはしなかったけれどノエルは低い唸り声を小さく鳴らしながら、ハルキさんを睨んでいた。
「人間、お前がマリルを監禁しているのか?」
ハルキさんはそれに対し驚く様子もなく、微笑んだまま自然に答えた。
怖れている様子もない。
「監禁はしていない。彼女が真に生きたいと望むならば、解放されるだろう。しかしキミも知っているように彼女は命を断とうとしている。その理由は俺には分からないけど、死のうとしているならば絶対に外に出せない。お前は彼女を死なせたいのか?」
ノエルを戒めるようにハルキさんは言った。
その言葉の端々には刃のような鋭利な感情が見受けられたが、それが何かは分かるわけもなかった。
「マリル、キミは命蝕がこのまま終わると思っているのか?実のところ何の根拠もないが私はこのまま終わらないと思っている。他の研究員は私の予想を受け止めてはくれない。けれど、その予想があるかないかで命蝕に対するアプローチは変わってくる。命蝕が避けられるものならば、避ける道を模索すべきだし、不可避なものだとしても、被害を最小限に留める方法を探すべきだ」
研究員が私の体の中に命蝕のメカニズムを探したところで、その先には何もない。
それを知らない研究者は果てのない探索に無駄な時間を費やすことになるだろう。
私に出来ることは彼に自分の罪を洗いざらい告白し、科学では解明できないということを知ってもらうことだ。
理解してもらうことが出来ないとしても、懺悔することが必要に思われた。
「私は…」
口を開いた時、私は自ずと震え始めた。
そして喉に何かがつっかえたように息苦しくなり声が出なくなった。
温い汗が全身からドッと吹き出し、関節が軋むのを感じた。
「どうした?」
「どうした、マリル」
心配そうに顔を覗きこむノエルとハルキさんに私は目を合わせられなかった。
何故私は自分の罪を言えないのだろう。
今更私は何を守ろうとしているのだろう。
私の中で蠢く葛藤が急激に膨張し、私は噴き出したように泣き始めた。
あまりに唐突でハルキさんもノエルも戸惑ったに違いない。
涙は止めどなく溢れ私の顔はグシャグシャになった。
「ごめんなさい…ごめんなさい…!」
がむしゃらに私はそう呟いていた。
ハルキさんは私の上下する背中にそっと手を当てた。
その手はとても温かく、私のブリザードが吹き荒れるような冷えきった絶望の心にほんの少しの明かりを灯してくれた。
きっと私は許されたいのだ。
歪んだ願いにより生み出された悲しみ達に。
どうすれば許されるのだろう。
こんな非力な私に出来ることは何だろう。