日記6 混沌の世界
世界は混乱の渦に巻き込まれた。
突如世界中で「理由なき生命の消滅」という現象が起こったのだから。理論と計算で全てを片付けようとしがちな人間達にとって、この有り得ない現象はこれまでにない脅威となった。
翌日私のみが取り残された屋敷に数人の警官がやってきた。
大方いつまで経っても帰宅しない主人の安否が気になった妻達が、葬儀場に遣いを出したのだろう。
そして警官達は予期せぬ状況に目を丸くした。
そこにいたのは無造作に散らばった礼服とそれに囲まれうずくまる少女と犬だけだったからだ。
私は膝を抱えながらガクガクと震えていた。
私の心は灰のように真っ白になっていたし、脳の機能を停止させようと努めていた。
「キミは?一体何があった?!」
私が震えたまま黙っていると激しく肩を揺さぶられ叱られた。
「黙っていては分からない。どうしたんだ」
私に答えられる気力は残されていなかった。
歯をカタカタ鳴らしながら私はただ俯いていた。
「ダメだ。とりあえずこの子を保護しよう」
警官達はそういう内容のことを話していた気がする。
私は警官に抱き上げられ、屋敷から運ばれることになった。
やがて無惨に散らばった礼服の持ち主は消滅したということが、世界各地の消滅からも想像された。
それではあの根こそぎ失われた屋敷の中で何故私のみが生き残ったのか、とマスコミは私を聖女として大々的に取り上げた。
悪魔を生み出したはずの私が聖女ともてはやされるのは珍妙な話だと思う。
しかし騒いでいるのはマスコミだけで警察はあくまで冷静に私がこの現象に密接に関わっている、あるいは私には消滅に対する耐性があると考えていた。
なかなかいい線を突いている。
しかしそう思っても当然の状況だった。
世界で点在した消滅の現場だったが、ここはその現場が集中し過ぎている。
参列者100人が消えた現場は世界中のどこを探してもここだけだ。
ロンドン郊外の屋敷が消滅のグラウンドゼロ。間違いない。
とはいえ、私が決して逮捕されることはなかった。
警察が私が起こした事態であると言いがかりをつけて逮捕するのはあまりに過激なことだし、私は事情聴取をするには、あまりに廃人と化していたからだ。
次第に後者の可能性が疑われるようになった。
私に耐性があるという可能性だ。
しかし私の身体を調べても、遺伝子を解析しても、浮上するのは健康であるという事実だけで科学者が求めるような有力なデータは全く得られなかった。
当然だ。私は悪魔に見初められただけのただの人間なのだから。
彼は私を決して消したりはしない。
それは彼に生まれた私に対する感情が原因であり、私が特殊な遺伝子や体質を持つからではない。
しかし、そんなことを彼らは全く知らないし、私がもし語ろうとも、凝り固まった頭を持つ彼らにはこんなファンタジーを理解できないだろう。
熱心なカウンセリングが行われ、1ヶ月かけて私はようやく言葉そのものを口にできるようにはなったらしい。
「らしい」というのは私には曖昧な記憶に過ぎないからだ。
当時は膨大な量の精神安定剤や睡眠薬を投与されていて、常に頭が朦朧としていた。
私は常時催眠状態にあった。
「命が喰われる」
私が放心状態でカウンセラーにそう告げたことがマスコミへと伝わり、やがて世界で起こるこの不思議な災厄を『命蝕』と呼ばれるようになった。
皮肉にも命蝕を引き起こした張本人がその名のきっかけを与えることになった。
世界各地で激しい暴動が起こり、そのせいで数百人が死んだ。
意識が朦朧としている私だったが、テレビカメラに向かって私は死にたくないと泣き叫ぶ白人女性の姿だけははっきりと覚えている。
それと同時に私の頭の中をグラグラと揺らす高笑いが聞こえた気がした。
私が軽々しく望んだせいで世界は変わってしまった。私のせいだ。
私は国営の病院のベッドで仰向けになったまま心の中で呟いた。
無機的な電子音が私の心臓の拍動を知らせてくる。
その単調な拍動は私の生の証であり、その揺らぎない力強さが私を更に苦しめた。
悲しみを生み出した張本人である私が抜け抜けと生き続けることは耐えられない。
そう思うと頭の中の高笑いは音量を増し、ますます私の頭を激しく揺らした。
私はその状態のまま2年を過ごした。
同じベッドで仰向けに寝そべったまま、同じ天井を見上げながら、緩やかに流れる時に身を任せながら生き続けていた。
薬の量も減り容態はかなり安定していたが、命蝕耐性の研究を理由とし国は私を病院に留めるよう努めていた。
時間とは残酷に過ぎゆくもので、命蝕による悲しみを世界は既に浄化しつつあった。
この時少なくとも人々にとってこの災厄は、たった一度きりの消滅に過ぎなかったからだ。
大切な誰かを失い、残された人々にとっては癒えぬ悲しみだったことは間違いないが、他多数の人々にとっては、あくまで遠くで起こった不思議な現象の一つに過ぎず、もしかしたら世界を股に掛けた壮大なイリュージョンの一つであると勘違いしていてもおかしくはなかった。
命蝕に関する特別番組は当時に比べると随分減った。
世界各地の暴動も鎮静の一途を辿っていった。
しかし私は知っている。
終わらない。
まだ終わるわけがない。
彼は必ず再び命蝕を起こすはずだ。
そして必ず私の前に現れる。
虚言を吐くような精巧な存在ではないし、彼の私に対する感情的な面から考えると私に嘘はつかないはずだ。
彼の言葉を借りるならば今は品定めをしている真っ最中なのだろう。
彼が喰うべき命の品定めを。
このしばしの休息は長くは続かない。
2回目の命蝕が起こる時、人々はさらに混乱し、あるいは絶望する。
そんなことは大人でない私でさえ容易に想像できる。
私は窓の外に見える月をぼんやり見ていた。
月は幕を被ったように靄がかかっており、白く淡い光を放っていた。
ふと養母のことを考えていた。もう私のことを忘れてしまっただろうか。
あれだけの騒ぎになったのだから、屋敷で起こった悲劇を彼女が知らないわけがないはずだ。
忘れてしまったのなら、それはそれで構わない。
今の私には還るべき場所など必要ないし、持つこと自体が罪に値する気がした。
次にふと浮かんだのが彼の言葉だった。
『青い月が邪魔をするんだ』
青い月。
そんなものが空に浮かんでいたら、またすぐに世界は混乱するに違いない。
しかし彼を抑えられる唯一の手がかりなのかもしれない。
もし私が青い月を見つけられたら何かが変わるかもしれない。
不抜けた顔を窓ガラスに映しながら、私はそんなことを考えていた。
時間は23時を過ぎていた。
私の病室は個室で隣接する部屋にも患者がいないのでいつもとても静かなのだが、その日の夜は一際静まり返っていた気がする。
消灯してから2時間経ち、眠りに着こうと目を瞑ったその時、私の病室がカラカラと音を立ててゆっくりと開いた。
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なんでもいいので・・・。