日記5 命蝕
悪い夢を見ているような気分だった。
世界中からありとあらゆる命が強制的に引き寄せられ、たった一つの命として生まれ変わろうとしていた。
目の前で憎らしい笑みを浮かべて立っていた兄弟達は、自らの身体の異変に気付き狂ったように叫び続けていた。
自分の身体が何者かに侵略されていく恐怖に取り込まれ、彼らの命は緑色の輝きを放ちながら、死に際の老犬の一部となっていく。
断末魔の叫びは私の耳に突き刺さり、恐怖を沸き上がらせた。彼らの抜け殻のように横たわる衣服がなお奇妙だ。
ノエルは究極の生命体の核だった。汚く濁ったような灰色の毛は、銀色に近いような輝きをもった毛色に変わった。
曲がった背骨も弛んだ口元も、白く曇った瞳も、全て若さ溢れるものに変わった。
そんな光景を愉快そうに笑う人間の姿があった。
「何故こんな…」
「何故だって?マリルが望んだことじゃないか。マリルが願ったんだよ。『クズな命は消えて、尊き命のみが生きろ』と。貴女が望んだのは粛清であり、私はその願いを叶えただけだ。分かってるか?世界で今、数百万の命が一瞬で消えたんだよ。人だけじゃない。動物、昆虫、魚、植物、ありとあらゆる命がマリルの見えないところで…」
私の身体は震えていた。恐怖を感じ、寒さを感じ、それらを合わせた身体を凍てつかせる恐れを感じていたからだ。
「これは私からのプレゼントだ。愛する貴女のために」
彼は忠誠を誓う騎士のように私の前に跪いた。
「あなたは誰?」
「私は形を持たざる者。私はマリルのたった1人の友人。この星が生まれた時から存在する命の監視者。星の思念体であり世界に普遍的に存在する者。マリルには何度も警告したはずだ。良くないことが起こると。貴女はそれを無視してここに留まった。そしてこの卑小な価値しか持たない人間、不条理な世界に対する貴女の憎しみが私を形作った」
鬼気迫るものを感じた。
目の前にいるのは人間のふりをしている悪魔だ。
そう思ったが、すぐに吐き気を催すような感覚が湧いてきた。
私が「友人」を形作ったならば、私が世界の脅威を産みだしたのだ。
私は悪魔の母となったのだ。
「マリル。貴女には私が見えるかい?」
口元の震えを必死で抑えながら、私は乾いた声で答えた。
「ぼやけて霞んでいる」
霞んでいるけれど、ヒトの形をしていることは分かる。
顔立ちは認識できないけれど、感情は読みとれる。
声にしようと思ったけれど、それ以上は掠れた吐息にしかならなかった。
「だよね。知ってる」
短く彼はそう告げた。
「マリルの強い思いが私に身体を与えてくれた。でもそれじゃ不完全なんだ。もっと命を喰らわないと私はマリルに永久に会えないし、朧気な存在に過ぎないままだ」
「命を喰らう?」
「私は数年かけて命の品定めをする。私に必要な命を選び、その魂を喰らう。いらない殻の部分は核となる者にくれてやるさ。その犬みたいに」
うずくまり、従順な生気溢れるノエルが私の顔を心配そうに見つめる。
その無垢な表情が私の心をさらにズタズタに切り裂いていく。
「星を動かす者が命であるならば、命そのものとなる私は星の支配者になれる。私はマリルと一緒に永久に2人きりになれる」
私がどんな苦悶の表情を浮かべていたか分からない。
歓喜?
絶望?
悲愴?
私が、私自身が願ったことではないか。
虫けらのようなクズが消え、世界が綺麗に掃除される。
しかしこれが繰り返される。幾度となく繰り返される。
とりかえしのつかないことを私は願ってしまったのではないか。
このままでは命が喰い潰されてしまうのではないか。
直感で思った。これは星の脅威だ。
「ただし…私には一粒の不安がある」
「不安?」
「せっかくマリルと一緒に永久に生きる計画を立てたのに、それを邪魔する者がいるんだ」
邪魔をする者?一体誰だというのだ。
声にならなかったが、彼には届いていたようで答えた。
「私は、これから私が生み出した戦士を使って世界の粛清を始める。しかし数十年後に青い月が昇り私の邪魔をする。それだけが気がかりなんだ。あまりに朧気な月だから気にすることはないと思うんだけど、ただその月の明かりのせいでその先の未来が見えないから」
青い月?
何の話をしているのだろう?
しかし彼が何を語ろうとこの状況は変わらない。
気がつくと音もなく雨が降り始めた。
雨が私の身体を溶かしてほしいと心から思った。
屋敷にはヒトの気配が感じられなくなっていた。
おそらく私に関わったが故に無惨にも喰われたのだろう。1人残らず。
「残念だけれどもう時間だ。私はまだ未熟故にこの姿すら保てない。でも安心して。私は命を喰らい、真の形を得て必ずマリルに会いに来る」
目の前にいる霞んだ存在は、雨に溶かされるように徐々に消滅していく。
笑っている。
最後の最後までその笑みは消えず、私の脳に深く刻みこまれた。
古い呪いのように。
「マリル、その時は私に名前をつけてくれよ。私にふさわしい名前を」
音のない世界に入り込んでしまった気がした。
彼の声が失われたと同時に雨の音さえ奪われた気がした。
自分を戒めるように雨の滴が空から私に叩きつけられる。
視界は色を失い、モノクロになった。
口の中は灰色の砂利の味がした。
私の中で膨れ上がる感情を抑えきれずに、私は叫んでいた。
こうしなければ私は壊れてしまっただろう。
「あーーーーっ!!!!」
空しく響く私の咆哮を聞いていたのは、ノエルだけだった。
彼だけが円らな瞳で慰めるように私を見つめていた。