日記への入り口
握り締めた手は先ほどと異なり熱を帯びていた。しかし、いつかナオトの手に感じた心に沁みた温かさではなく、ダイアリーの手にあったものは熱そのものだった。あまりの熱さに手を離しそうになるが、その手は離れることはなかった。熱さのあまり私の手は燃えているのではないかと勘違いしそうになる。
固く2人は接続されている。
「目を開けて下さい」
気付くと、私達は真っ白な壁に囲まれた直方体の部屋にふわふわと浮かんでいた。足場が安定しないはずなのに、妙な安心感がある。赤子が子宮で眠り続けるのはこのような状況に似ているだろうと思った。
「貴女の持つ力はマリルに授けられた力です」
「私の力?」
「貴女の持つ【眼】のことです。貴女の眼は過去の他人の眼を借りて、そこから観察することができるはずです。今まで幾度となく観覧席から過去を見つめてきた。違いますか?」
私は鷹揚に頷いた。あれを真の過去とするならばその答えはイエスだ。
「しかし、今、貴女のその眼の発動は誰か強い力を持つ者に誘われる必要があります。貴女一人では入り口に立つことはできません。貴女はリヒトに誘われ、彼の過去を見たのです。彼は自ら星の駒としての支配を受けながら一途に星の暴走を抑えようとしていますからね」
ダイアリーは何の感慨もないような様子で淡々と語る。
「彼は星に刃向かうことができません。彼の肉体は星の意志により維持され機動していますから。星に見つからないようにこそこそ動いているようですね。彼はコアになってからここを訪れたことがあります。彼は【眼】を持っていませんから日記を読むことはできませんでした。しかし貴女はその【眼】を開き、日記を読むことができます。私は命蝕に関わるいくつかの日の記述を抜粋し貴女を入り口へ案内します。準備はいいですか」
当然心の準備はできている。
だからこそ私は彼の手を取ったのだ。私が頷くと、ダイアリーはその凍結した表情を一瞬緩ませた。何か大きな含みのある瞳の色だ。
「分かっているのですか?日記を読むということは貴女の内側にいる存在を外側へと引き出すことになるのですよ。日記を読み終えた時、貴女は貴女ではなくなる可能性だってある」
違和感を覚えた。使命を背負った日記そのものである彼が、何故私にそのようなことを言うのか。
「貴方は私に日記を読ませたいのでしょ?そんなこと言って怖がらせちゃダメじゃないの?」
私が指摘するのはおかしいが、正論を言ったと我ながら思う。ダイアリーは相変わらず澄んだ紫の瞳で私を見つめている。
「私は貴女を失いたくない」
「え?」
蝋燭にポッと火が点くように彼はつぶやいた。
「私は貴女を長い間待ち続けていました。彼女が死んで、私が生まれてから、貴女のために存在していたのです。しかし実際に貴女に会ったせいか、土壇場で私に躊躇いが生まれてしまいました。内面に食いつぶされる貴女を見たくはない」
私の手を握る無機的な青年が急に生物としての機能を開始したように見えた。使命と欲望の葛藤が彼の円滑な機能にバグを与えている。そんな弱々しいダイアリーに私の心は揺らいでいた。
なんだか申し訳ない気持ちと有り難い気持ちが湧いてくる。
「私が私でなくなることは有り得ない」
私は彼の手を強く握りながら、言い聞かすようにはっきりと断言した。ダイアリーは黙ったまま私の瞳を見つめ続ける。
「私は戻ってきて貴方と再会する」
突如人形が命を吹き込まれ人間へと変化したように、彼はうっすらと笑みを浮かべ私の手を更に強く握り返した。数秒立つ前にふわふわ浮き上がる身体が突然重力を感知したように重くなった。
辺りの白い壁が暗闇に閉ざされ足下の黒い渦に私は飲み込まれる。
深い深い黒の世界に私は飲み込まれる。