ダイアリー
青年は凍り付いたような無表情のまま階段から私達を見下ろしている。
辺りを見回しても気づかないその存在感の無さは尋常ではない。「私は柱です」と言われれば、「あぁ、柱ですか」と流してしまいたくなる。
「私は敵ではありません。マリルに言われたままに日記を守り続けていました」
「信用できないな。お前はコアだ」
「そうです。しかし、だからどうだと言うのです?肝心なことは我々も人間と同様に生きており、人間と同様に生き物を食らうということです。それを端的に悪というのはあまりにも残酷すぎると思われます。人間は命を無益に奪いますが、コアはその命をまるごと己と融合させ生きます。私にとってはどちらが正義でどちらが悪かなど、どうでもいい話です。私は日記の内容を貴女に伝えるという、そのために存在しているコアなのだから」
青年は小さく息を吐いて、ゆっくりと階段を降りてきた。同じ高さに立つと彼がとても背が高いということが分かった。おそらく185センチはあるに違いない。
「奥へどうぞ。日記を読みに参られたのならば」
彼はそう言って私達をエントランスの奥にある扉へと案内した。
そこは応接間でありフカフカのカーペットが引かれた上に豪勢な黒いレザーのソファーが行儀良く並んでいる。更に応接間の奥にはおとぎ話で出てきそうな暖炉が見える。
「長旅、お疲れだったでしょう。お掛けになって楽にしてください。警戒されるのは分かるが、私とて『信用を得る』という作業は割愛したいというのが本音です」
紫色の瞳は私を射抜くように鋭かった。表情のない彼の感情を読みとるには、その瞳に秘められた鈍い眼光を読みとるしかないように思われる。
「貴方は誰なの?」
私はとりあえず聞いてみる。一般的には相手が敵でないという情報よりも、相手が何者であるかを確認するのが効果的なはずだ。
「私に名前はありません。私はマリルのダイアリー。つまり、ただの日記に過ぎません」
「日記?貴方が?」
「はい」
そう言って私の眼を真っ直ぐに見つめる。衣服の赤い光沢が妖しく煌めいた。
「星は貴女が生まれてくることを知っていました。身体が朽ちた後、彼女の魂が貴女の中に眠ることも、貴女がマリルの存在に気付くことも、星は知っていました」
「何故?」
「すべて星がマリルを復活させるために画策したことだから。星は貴女の中のマリルを表に出すために、マリルの魂の一部と同化させた日記を残しました。それが私です。今はこのような人間の姿をしていますが、私の形は元来原型を持ちません」
私に渦巻く様々な感情はしかしながら一瞬で凍り付くことになった。彼は私の前で屈み、私の右手をとり両手で包み込むように握った。彼の手は紙のように白く、体温を感じさせない。
先日リヒトに手を握られたが、あの時感じたものに似ている。無期的な冷たさのみが伝わってくる。
「貴女は自らの意志でここにやってきました。その理由を私は知っています。貴女には潜在的に『知る』必要があることが分かっているからです。命蝕を強く憎む気持ちは確かに貴女のものですが、貴女の内面に住まう者の気持ちでもある」
彼が発する言葉に抑揚はあまりない。機械人形が人語を操れるようになれば彼のように話すに違いないと思った。
突然、エントランスの方から爆音が聞こえ、振動が伝わった。
そしてその後を追うように怪しげな歌声が聞こえてくる。
この歌をどこで耳にしたかすぐに分かった。あの夢の中で、リヒトがコアと化したあの夢の中で聞いたのだ。
「夜会が始まってしまったようですね」
扉を閉めているにも関わらず何かが燃える臭いが部屋に侵入してくる。激しい爆音にも関わらず、ダイアリーは無表情で、悠然と扉に視線を向けただけだった。
「夜会?これが…」
ダイアリーは小さく肯いただけで答えない。言うまでもない、という感じだ。
夜会。
なんて禍々しい歌だろう。
なんて恐ろしい儀式だろう。
現場跡地には行ったが、現場に遭遇したのは初めてだ。このまま私達がここに留まれば、あの黒い廃墟の一部となるのだろう。
「大方予想はつきます。貴方達がイギリスに行くと知って黙っていない者が貴方達を追ってきたのでしょう。リヒトではありません。恐らく他のコアです」
「そんな・・・」
「わずかながらコアの気配がします。ナオトなら分かるでしょう」
ナオトは険しい表情のまま否定も肯定もしない。それどころか彼は微動だにしなかった。茂みに隠れて獲物を狙う豹のように息を殺し、扉の向こうに神経を集中する。息苦しく感じたのはきっとナオトの放つ冷たい闘志のせいだろう。
「ナオト、あなたにお願いがあります」
突然ダイアリーに名を呼ばれ、彼の周囲に立ちこめる緊張感が緩んだ。ダイアリーの口調は相変わらず線の細い単調なものだが、心なしか懇願の色が見えたような気がした。
「ウィルと協力してどうにか時間を稼いでほしいのです。私は日記として果たすべき使命があります。カオルにマリルの想いを伝えるという使命が。夜会を鎮圧するには扇動する者を排除する必要がある。貴方にそれをお願いしたい」
次に紫色の瞳は、私の眼を真っ直ぐに捉えた。
「カオル。貴女に日記の内容を全て伝えたい。どうか私の手をお取り下さい。警戒されるのも分かりますが、私に残された時間にも限りがございます」
ダイアリーはそう言って手を差し伸べた。真っ白なその手はこれまで何にも触れず新品のまま、という印象を受けた。
私の中で葛藤があったのは間違いない。ここ数日間を振り返るだけで、幾度となくこのジレンマにぶつかり、その度に選択してきた。選択と言っても実際は知りたいという本能に忠実にあっただけだ。もう迷う必要はないような気がしてきた。
私は深く息を吸ってから、目の前に差し伸べられた彼の手を強く握り締めた。