その頃集落では
「ノエル。ご飯ですよ」
眠っているノエルに声をかけたのはサキだった。ノエルはゆっくりと瞳を開けてサキを見上げた。
眠っているだけならば誰がどう見てもただの犬にしか見えないな、とサキは思う。
「夢を見ていたよ」
目が虚ろなノエルは未だに夢の中にいるようにも見えた。
「あら。どんな夢です?」
ノエルは何かを辿るように慎重に言葉を探しているようだった。そういえば昔「夢とは辿り方を間違えると脆く壊れてしまうような記憶だ」とノエルに教えられたことがある。
「夜が明ける前に彼女と海に行ったんだ」
「羨ましい夢だわ」
「砂浜に座り込んで月を見送りながら彼女と話をしていた。朝日を迎えて気が付くと夕日を見送っていた」
「どんな話をしていたの?」
「何を話したかは覚えていない。でも不思議かつあってはならないことが起こった」
ノエルは目を伏せた状態で話し続ける。
「夕日に照らされた時に私は気付いたんだ。私の隣にいたのはマリルではなくカオルだった」
ノエルは苦悶の表情を浮かべていた。言葉の端々に罪悪感のようなものがはみ出していた。
「間違えたってことですか?確かに2人はよく似てるから」
「2人は確かに似ている。しかし・・・カオルを見ていると、彼女がマリルだったならば、と願ってしまう私は時々自分が恐ろしくなる」
夢に対して常に真剣に向かい合うのはノエルの癖だ。
「そういう歪んだ思いは誰だって抱くもの。気にすることはないわ、ノエル」
サキはそう言って優しくノエルの背中を撫でる。
「ところでナオト達はマリルの日記、ちゃんと見つけられるかしら」
「どうだろう?私は存在こそ知っているが、中身を見たことはない。彼女が死んだらイギリスに送るように言われたから、その通りにしたが…」
マリルは老衰でみんなに看取られながら安らかに眠りに着いた。サキもノエルも悲しみの重圧に押しつぶされそうになりながらそれを見届けた。
「私が毎日書いた日記があるの」
マリルは消えそうな声で呟いた。呼吸に言霊が乗っている。声を組成する大半が息だった。
「それをイギリスの私の家に送ってほしい」
最期の時だった。サキの記憶の中の最期のマリルは涙で曇っている。
「決して開かないで。いつか世界が動き始めたらそれを必要とする人間が現れるから」
ノエルは泣いていなかった。決して悲しみを抱いていなかったわけではなく、ただ単に涙の流し方を知らないようだった。
「ノエル。私はあなたに出会って生きてきたこと後悔していません」
マリルは弱々しい笑みを浮かべた。いつ事切れてもおかしくない様子だったのを覚えている。
「私もだ。マリル」
ノエルは太い男の声で応えた。涙が出ないからだろうか、声は今まで聴いたことないくらい切実に悲しみの色を帯びていた。
「ありがとう。おやすみなさい」
そう言ってマリルは眠ったように息を引き取った。
笑顔を浮かべたまま安らかに。
サキはその日から数日間は眠れなかった。
人間がこんなに睡眠なしで生きていけるのかと感心したし、何を作っても食べても美味しくなくて、心は大穴が空いたような気分だった。光を失い、明日から朝は来ません、と宣言されたようだった。あの頃は私も若かった、とサキは思う。身寄りのないサキには大切な人の命が死を経由して永久に失われることが、身を切り裂くような痛みを伴うことを知らなかったのだ。
「ナオトが言うには日記の存在はリヒトが知っていたということらしいですね」
「あぁ。何故彼が存在を知っていて、カオルに読むことを促したのか不明だが、何らかの目的があることは間違いない。それを知るためにもカオルには行ってもらわなければ」
ノエルは皿の上のカレーライスにがっついた。通常の犬に比べたら、品のある食べ方かもしれない。
皿から全く何物もこぼれることなく、スマートに食事を済ませた。
「リヒトは星に反抗するために試行錯誤しているようだな。下僕であるコアとして生まれ変わったというのに、無謀なやつだ」
「リヒトが嘘を言っている可能性もあるけれど・・・」
「確かにその可能性も考えられる。全てを鵜呑みにすることは危険だな」
そう告げるノエルの顔はやはり凛々しい。この忠犬は必要ならば飼い主のために惜しみなく命を投げ出すだろう。サキはそう思った。
「どういう形であれ私の命を救ったあの男を、私の手で抹殺するように運命が仕向けているのは皮肉な話だな」
うっすらと笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろう。ノエルの周りに小さな蚊が数匹、群がって飛んでいて、それを尻尾で器用にたたき落としながら彼は言った。
「確実に世界は変わろうとしている。それに抗うことそのものが烏滸がましいことなのかもしれないな」
「その問いは我々忍海全員が自答してきたものです。星が選びとる道に何故従うことを悪とするのか。私達は自衛のためにテロを起こすただの蛮族なのか。答えは出ません。ただ私達はマリルの遺志を受け継いだ戦士であり、マリルの思いが必ず世界を良き方向へ導いてくれると信じています。未来を見つめていたマリルの眼が何を捉えたのかは分かりませんが」
「それは私にも分からない。日記に辿り着いた人間はその答えを手に入れることができるかもしれないね」
ノエルの周りに群がる蚊はいなくなっていた。彼は窓一つない壁を見渡す。
ノエルが住むこの地下シェルターは勿論窓はない。
再蝕を少しでも遅らせるための施しがしてあるこの場所から彼はもう出ることはない。
ハルキさんのように。
「海に行って月が見たいものだ。明日はマリルの命日だ」
「そうですね」
少しノエルの声が上擦っているように聞こえた。
これはきっと気のせいではない、とサキは思った。