出発
最悪の目覚めだった。悪夢に魘されながら、少年に叩き起こされるというきわめて不快な寝起きだ。身体は汗が吹き出してびっしょりと濡れていたし、ぐぉんぐぉんという耳鳴りと、吐き気の伴った頭痛がセットになった最悪のコンディションだった。
「カオル。日記の居場所が分かったよ」
この体調不良に比べればあまりに些細なことのように思われた。私が必要としているものは日記ではなく睡眠だ。
「それ、今言わないといけないことなの?」
目は自分で故意にこじ開けないと閉まったままだ。だから私の目は閉じたままだった。無理矢理開ける必要もない。
「イギリスのマリルの家にあるみたいだ。ノエルが言っていたから間違いないと思う」
「あ、そう」
おそらくマリルに関する真実がそこに綴られている。とはいえ、今叩き起こされて在処を知ることは不愉快だ。
「何時だと思っているのよ」
「何時だと思ってるんだ」
2人の声が重なり、私は目を開けた。外は明るくなっていたし、日光の差し加減から昼前であることは想像できた。
携帯電話を手にとり、時計を見ると11時半になっていた。
あんなに規則正しく生活していたのに、この一件以来私の生活リズムはすっかり崩れてしまい、朝がこんなに苦痛になるとは思ってもみなかった。
「空港に行くよ。早く準備して」
ナオトは私の布団を引き剥がして急かしてくる。まるで遊園地に行きたがる子供みたいだ。冷静に考えると、26歳の女の寝室に少年の姿をした男がいること自体珍妙に思えるが、逆に自分の寝室に男が1人いようといまいと、そのことでキャーキャー騒ぐほどの若さはない。
私はすぐに準備に取り掛かり、最低限の荷物を鞄に詰め込んでタクシーで成田空港に向かった。
「リヒトみたいに瞬間移動してくれたらいいのに」
タクシーでボソリと呟くが横に座っているはずの消えているナオトは黙ったままだ。代わりにタクシーの運転手が「え?」と振り向いた。
私はとりあえず笑みを浮かべてその場をやり過ごした。
おそらく無理を言ったであろうことは分かっていた。彼は刀により力を供与されコアに変化しつつあるとはいえあくまで基盤は人間であり、純粋なコアであるリヒトに比べれば力が弱いことは容易に想像できた。
タクシーの中ではラジオが流れていた。
電波が悪いのかノイズ混じりの不透明な音声でニュースが告げられている。暢気にリスナーお勧めの曲を紹介していた。緩やかに美しい旋律が流れ、卒業式でよく耳にするあのカノンだとすぐに分かった。
Jポップがメインのその番組の中で、カノンをリクエストする人間に私は一握りの親近感と憧憬を抱いた。
カノンは父がこよなく愛した曲であり、この曲を聴くだけで父がすぐ側にいるように感じられる。
思えば私は随分遠くに来たような気がする。
一方でまだふりだしで足踏みをしているだけのような気もする。
もう戻られないことは分かっているし、戻る気もない。
私の中で確固たる目標ができていた。
父の遺志を継ぎ、命蝕の脅威から世界を救う。「不思議の国のアリス」の主人公アリスのように奇妙な世界に入り込んでしまったわけではなく、これは私達の世界なのだから。私にできることは何かあるだろうか。幾度となく考えたが分からなかった。
でも。
『貴女の中にいるマリルに会ってきてほしいんだ』
リヒトは確かにあの時そう言ったのだ。
私が世界の変革に巻き込まれる原因は必ず存在する。そう思わないと、やっていられない。
よく考えると飛行機に乗るのは随分久しい。確か5年前に上司に連れられてアメリカに行ったきりだ。何せ休暇がゼロであったので旅行等行く暇はない。
頭の中であれやこれや考えているうちにフロントガラスの向こう側に成田空港が見えてきた。