青き桜の木の下で
「会えて嬉しいよ。カオル」
青年は背筋を伸ばし、真っ直ぐに私を見つめる。美しい無駄のない微笑は一切の感情を読みとることすらできない。しかし、先ほどパーティ会場にいた青年と異なり、表情は柔らかく圧迫感はない。
「お招きいただき光栄、と言いたいところだけれど、あんまり私は貴方に対して良い印象がないのよね」
リヒトは吹き出し笑う。
「だろうね。僕の話をナオトやノエルから聞いたのだろう?」
「ええ」
「そうか。否定はしない。僕は確かに世界にとって脅威となる存在だから」
リヒトは柔らかな笑みを浮かべたまま私の耳元に囁く。
「星に見つかりたくない。場所を移そう」
周りを見渡すが何も見あたらない。訝しげな私に構わず彼は手を差し伸べる。私は一瞬躊躇ったけれど、恐る恐る彼の手を握った。彼の手はスベスベしていて冷たかった。女性のような細く長い指は妖艶な魅力を感じた。
ナオトはまだ指が伸びきっていないし、温かさがあったので彼とは対照的だと感じた。
私が手を取ると周りの空間が歪み瞬きするうちに木に囲まれていることに気づいた。忍海の集落があるあの森ではない、と直ぐに分かった。管理の行き届いた庭園のような長閑さを感じたからだ。
「後ろを見て」
リヒトが私にそう囁く。振り返ると同時に私は息を呑んだ。
思わず言葉を失った。
そこには目の覚めるような鮮やかな青い花びらを散らす美しい青桜の木があったのだ。
「この桜はコアなんだ。美しいだろ?」
確かに美しい。その雄大さと可憐さに圧倒され、私は動けないまま桜を見つめている。
「強烈なコアの気配に隠れていれば、少しはごまかせる。今、パーティ会場で、星は僕という名の娯楽を楽しんでいるしね」
パーティ会場で挨拶をするリヒトを思い出す。あれが星だというのか?
「星の邪悪な思念体は100年前に身体を手に入れた。それがあの肉体。今日とかテレビ放送の日は僕の姿をしていたけど、星に明確な姿はない。あれは何にだってなれるんだ。僕ですら星の真の姿を知らない」
私は、青い桜を眺めながら訊ねた。
「どうして私を呼んだの?」
「貴女の【眼】だけが、本当の星を見つけられるから」
「どういうこと?」
「貴女は、人にはない【眼】を持っている。現に貴女は僕の過去をその【眼】で見ただろう?」
何度か見たあの奇妙な夢が真の過去であるというならば。
「その【眼】を持つ者は少ない。僕が知っているのは貴女だけだ。昔はその【眼】を持つ一族がいたという噂を聞いたことがあるが、詳しくは知らない」
「何故、私が?」
「さぁ?だが、正確には何故マリルが?と聞くべきだな。貴女の【眼】は明らかにマリルから受け継いだものだ」
私とマリルはあくまで架空の友達であって、血の繋がりはない。そもそも忍海マリルが、私の友達の「まりる」と同一人物かも確証がない。私が何故マリルから【眼】を受け継ぐことができるのだろうか。
「マリルは【眼】をもつ唯一のヒトだった。その【眼】は『想い』を見ることができるんだ」
「想い?」
「心、というべきかな。僕は貴女の【眼】を試すために、僕の過去の記憶に誘った。コアともなれば強い意思を持てば、そんなこともできちゃうんだよね」
リヒトは少し悪戯をしたと言わんばかりに舌を出した。
「ヒトもコアも星の思念体、つまり心を見ることはできない。でもその【眼】ならば真の星を見つけることができる。あのかりそめの肉体ではなく、本当の姿を見ることができる。そうなれば話は早い。あの刀に食わせればいい。全てを飲み込むあの青き妖刀に」
「意外ね。貴方は星に創られたコアなのに、星を滅ぼそうとしている」
リヒトはにっこりと笑う。その通りだ。口には出さないが、そう言っている。
「星に創られた僕は、星の言うとおりに動くしかない。従うことしかできないんだ。だが、世界を滅ぼしたくはない。手紙で言ったとおり、僕は世界を救いたいんだ」
切実な目で彼は言った。しかし心と身体が分離しているのだ、と彼は付け足した。
「僕には星を見ることはできない。貴方の【眼】で真の星を見つけてほしい」
できるならそうしたい。命蝕を止めたいという利害関係が一致するならば、私にできることなら協力したいと思う。しかし・・・。
「私が【眼】を持つとしても、そんな星の思念体なんて見えたことはないわ」
「そうだろうね。貴女の【眼】は極めて不安定だ。実際僕の過去を見たのも眠っている間だけだった。無意識でしか働かない【眼】では意味が無い」
彼はしゃがんで地面を覆い尽くす青い花びらを拾っている。美しい青年が美しい花を背景に佇む光景は絵画より出来の良い絵になるなぁと思う。
「そこで、貴女にお願いがある」
「何?」
「貴方の友達に会ってきてほしいんだ。貴方の中にいる、忍海マリルに」
自信満々で解答した問題に丸を付けられた気分だった。幼少時に何度も夢で私を救ってくれた友達は、忍海マリルその人だった。
「ロンドンにマリルの残した日記がある。【眼】をもつ貴方にしか読めない日記が。それを読めば貴方の中で燻っている力も目覚めるだろう」
予言めいたその言葉に私の鼓動は早まる。自分にそのような力が眠っているなんて半ば信じられない。やがてリヒトの視線が私よりも先を見ていることに気付いた。
「そこにいるのは分かってる。ナオト」
桜がざわっと音を立てて風に揺れる。リヒトが穏やかな声でそう言うと、桜の背後からナオトが現れた。
「久しぶりだな。まだ成長してないってことはまだ刀を振り回してるのか」
ナオトは口を開かずに、鋭い目でリヒトを睨んでいる。その手には青く鮮やかに輝く刃が握られている。
「久しぶりの再会を喜びたいところだが、時間があまりない。ずっとそこにいたんだから、彼女の行き先は分かっただろう?星に見つかる前に、彼女を送ってやれ」
ナオトはリヒトの言葉に激昂した。抑えていた怒りを噴出しナオトが刀を振りかざし、リヒトに切りかかる。
まさに瞬きの時間のような刹那だった。
しかしリヒトは動じることなく、ズボンのポケットに入っていた小さなナイフで刃を受け止めた。鉄と鉄の重なる音が耳に突き刺さる。
「お前が・・・全てを飲み込んだんだぞ?!俺達の母さんも父さんも。何故そんなお前が飄々と生きていられるんだ?」
「僕が命蝕を願ったわけではない。僕はマリル達が理不尽に殺されるのが許せなかった。その思いが星に叶えられただけのこと。邪魔者は排除され、マリルが生き残った。全ては星の思うがままに」
激しく罵倒するナオトと異なり、リヒトの声は深い海の底のような静けさがあった。
「ふざけるな!」
「僕への憎悪がお前の刃となるなら、それはそれで構わない」
「?」
「慌てずとも、いずれ僕もその刀で貫かれる日が来るさ」
小さく彼は呟き、刀を受け止めたまま寂しそうに笑った。その笑顔があまりに切なく、私はリヒトを見つめたまま動けなかった。
すぐに私の視線にリヒトの視線が交わった。
「頼んだよ。カオル」
リヒトは弱弱しく微笑み、その場から消えた。まるで今まで話していた相手が幻であったかのように。
「ナオト…彼は悪者なの?」
ナオトの表情は相変わらず険しく、眉間の皺は外見にふさわしくないとつくづく思う。ナオトは剥き出しの刀を鞘にしまい、行き場のない怒りを抑えようとしているのか、大きく深呼吸をした。
少ししてから、ナオトは青い桜を仰ぎながらぽつりと呟いた。
「リヒトは俺の兄貴なんだ」
【眼】で見た2人とナオトの話から予想はしていたことだったので、さほど驚きは無かった。
「俺はあいつを許すことはできない」
「でも、命蝕は彼が望んだことではないわ」
私がリヒトを庇うことで、ナオトは怒りだすと思っていたけれど、彼は少し背中を丸くして小さく「そうだね」と呟いただけだった。
すると奇妙なことが起こった。
『あ・・・青き月よ・・・』
どこからか声が聞こえてくる。その声の主が「青い桜」であることに気付くまでに少し時間がかかった。
『私は・・・この時を待っていたのです』
少し擦れた女性の声だった。
「お前、話せるのか?」
ウサギや犬だけではなく、植物でさえコアならば話せるのか。私だけではなく、このことにはナオトも驚愕しているようだ。
『私は今から80年ほど前にコアとなりました。言葉を得て、知能を得て、孤独を知ることになったのです』
「孤独・・・」
『私を癒してくれたのは貴方でした。マリル』
桜はおそらく私をマリルだと思っている。人違いというのも面倒だったので、敢えて訂正はしなかった。
『そして、私はずっと貴方と会うことを夢見てきました。貴方がいつか青き月を見つけ、ここに連れて来ることは私が生まれた時から分かっていたことだから』
「青き月、とはこれのことか?」
ナオトが訊ねると、桜は小さく枝を揺らした。
『私はこの孤独から解放されることを夢見て生きてきました。私を解放できるのは青き月だけです』
「お前は死を望むと?」
ナオトが更に問うと、桜は再び小さく枝を揺らした。青き花びらが雪のように舞うのが息をするのも忘れるほどに美しい。
「分かったよ」
「ナオト?」
一瞬の出来事だった。
姿勢を低くしたなと思った時には、ナオトは刀を神速と呼べるほどの目にも留まらぬ速さで抜いて、綺麗な剣閃を描き、青い花びらを散らす桜を一刀両断した。切れの良い包丁で大根を切った時のような無駄のない切り口の状態で桜の上半身はバランスを崩し大きな音を立てて倒れた。
『ありがとう・・・さようなら・・・マリル』
やがて緑色の淡い光が桜を包み込み、桜は根こそぎ消えた。私達はいなくなった桜の魂の光を見届けた。
光が空気に溶け込み、この世の一部となるのを最後まで見届けた。