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ウサギと青い月

「カオル」


私のことをそう呼ぶ人間は少ない。この世でたった2人。私の両親だけだ。そして暗闇の中で聞こえるその声は紛れもなく懐かしい父のものだった。


「お父さん」

「カオル。また来たのか」


私は父の仕事場が好きだった。難しそうな分厚い本に囲まれた書斎が私の隠れ家だった。


「だってお父さん、ちっとも帰って来てくれないからさみしいんだもん」


不貞腐れた私は7歳の少女の姿だった。当時父が仕事で家に帰ってこない日が続くと、私は職場に自ら会いに行った。その度に父は困った顔をしながらも私を抱きかかえ、優しく頭を撫でてくれた。


「そんなこと言って、ただ書斎に遊びに来たんじゃないのか?」


父は笑っている。半分は図星だったので私は笑ってごまかした。

もう半分は幼い私にとって重大な問題だった。


私はしばしば悪夢を見た。何度も何度も同じ夢だ。

私は見知らぬ洋館にいる。私の目の前に悪魔が舞い降りて、人間を食べてしまう。


その光景を私は何度も夢で繰り返し見た。


眠れない時はどんなに遅くても、父親のいる離れの書斎に行った。自然と父の顔を見ると、安心して眠れるからだ。私は父がどんな仕事をしていたのか知らない。常に難しい書物を読んでいた様子からすると、何かの学者であったのだろうとは思うが彼の研究内容に関しては全く知らなかった。母も幼い私に、それについて語ることはなかった。


「何をしているの?」


私は赤いソファーに座り、父に尋ねる。


「カオルの嫌いなやつだな」

「あ、分かった。宿題でしょ」

「そうだ。お父さんは宿題をやっているんだよ」


当時の私には父親が嘘をついていると思った。


「ふふ。宿題は先生が出すんだよ。お父さんには先生なんていないでしょ」


私がたしなめると父は困ったような表情を浮かべた。


「お父さんにも、宿題を出す人はいるよ」

「そうなの?」

「宿題は先生がはなまるをつけてくれるように頑張らないとね」


父の抱えていた宿題はどんなものだったのだろう。父親の宿題ははなまるをつけてもらえるものだったのだろうか。


そもそも何故今、こんな昔の記憶を思い出すのだろう・・・。




私は気がつくとひんやりとしたアスファルトに寝そべっていた。


私は闇の中にいた。直喩でもなければ隠喩でもない。辺りはすっかり夜になっていたし、明かりが一切なかったので真っ暗だったのだ。


激しい頭痛を感じてそこから覚えていない。高橋の車の中の記憶と現在との間にぽっかり隙間があいている。野外で寝る趣味は無いのでとりあえず立ち上がって現状を把握しようとする。


そこは見覚えのある風景であり、夜会の跡地でもあった。


私の住んでいた家であり、父の働いていた書斎。私の隠れ家だ。


もはや見る影もない廃墟と化して、崩れた建物だったものからは妙な貫禄さえ感じる。


何故私はここにいるのだろう。そもそも高橋はどこに行ったのか。

まさか怖くなって私を道中に捨てたのか。その考えがよぎるが、怒りを感じることはなかった。

その方が自然だという思いさえした。

凶悪犯に荷担すればどんな善人でも罪に問われる。


私が凶悪犯のレッテルを貼られ、それが待望の夜会の扇動者であると言われれば、命蝕被害者に言い逃れる術はない。


命蝕の歴史が生み出した悪しき流れであり伝統だ。


そんな人間を匿うことがどれだけ馬鹿げているかなど、想像せずとも分かる。


その時、瓦礫の向こうで何かが動く気配がした。


「高橋…?」


私は僅かな希望を抱きながら、おそるおそる呼びかけた。そして私の声に応えるように瓦礫がガタッと崩れ「それ」は姿を現した。


大きなウサギだった。

ウサギ小屋にいるウサギではなく、小さな小学校のウサギ小屋サイズのウサギだった。


「ニンゲンね」


ウサギが私に呼びかける。その巨大さに驚いている私はさらに驚愕する。


「可愛いニンゲン。何をしにきたの」


紅い瞳で私を見据えている。心なしか苛立っているように見える。


「な…何なの?」

「貴方を食べたら、可愛くなれるかしら」


ウサギの口から粘性のある涎が垂れた。口元に巨大で鋭い犬歯が見え隠れしていたので、間違いなくこれはウサギではないと思った。


「私はリヒト様に近づきたいのよ!」


ヒステリックな女性の声がウサギから聞こえてくる。気持ちが高ぶっているのが分かった。


「こんな醜い姿じゃあの方に近づくことはできない!」


ウサギは荒々しく息を吐いて、犬歯を剥き出す。サバンナに行ったことはないが、おそらくライオンが威嚇する時はこんな感じだろう。ということは、私は捕食される側であることは間違いない。

絶体絶命であることも間違いない。


しかし私は逃げなかった。


希望が失われた今、この意味不明な生き物も、意味不明な凶悪犯のレッテルも、私もろとも消えてしまえばいいと思った。


空を見上げた。


星が良く見えた。


満天の星空という言葉はこんな空のためにあるんだなと感じた。星に寄り添うように、月が見えた。今宵は美しい三日月だった。


そして月に寄り添うように青い三日月がもう一つ見えた。

そして次の瞬間には青い月が空から降ってきて、目の前の獣は斬り裂かれていた。

紅い血を流しながら淡い緑色の光を放ちウサギが消えていく。仰々しい断末魔をあげながら。


私の目の前には青い刀を手にした小柄な少年が立っていた。


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