番外編:布を剥がした者
番外編:布を剥がした者
「ねぇ、これって誰の忘れ物?」
それは突然だった。
青年ではない。一見の客だ。
ふらりと現れ、カウンターの右端に座り、何気なく“その布”に手をかけた。
店主は止めなかった。
止めようとしなかった、のではない。
止める“余裕”すらなかった。
(……あの布に、触れた?)
カウンターにいた全員が、その瞬間に振り返る。
青年は言葉を失い、カノンの“記憶”がふるえるのを感じた。
べりっ
うす茶色の布は、思いのほか軽く剥がれた。
その下には──「記録されなかったままのログ装置の“本体”」があった。
見た目は古びたノートのようで、何も書かれていない。
けれど触れた途端、その者の目の奥に、膨大な語りが“逆流”して突き刺さった。
「……え? なにこれ……誰の、人生……?」
その客はうろたえ、席から立ち上がる。
が、足元の床が“カチリ”と音を立て、滑るように回転を始めた。
語りの逆流現象
ログ帳が、勝手に開く。
《Z:終章に至らなかった文字》
《Y:記録に残らない瞬間》
《X:照合不能な声》…
まるで剥がされた布が、長年封じていた“抑圧されたアルファベット”を逆順で解放し始める。
カウンター上の全てのランプが“赤く点滅”。
あの、消えなかった右端の光までもが激しく明滅し──
「やばいやばいやばい、なにこれ!?」
一見客は叫び、ログ帳を投げ捨てようとしたが、
その記録は、もう“彼の内部”に書き込まれていた。
《語りは、触れた時点で回路に参加する》
うす茶色の布が、ゆっくりと宙に舞い上がり――
まるで自律的に、“また同じ場所に戻ってきた”。
まるで“何事もなかった”ように、
右端の記録装置の上にそっと着地する。
一見客は姿を消した。
だが、その直後から、ログ帳に《第零の語り》というページが追加されていた。
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《第零の語り》
無名の訪問者。語られることなく、語り手になった者。
布を剥がし、語りの回路を暴走させた起点。
その名は記録されない。なぜなら――
まだ語っていないからである。




