⑨
「お姉様、何かいいことでもありましたか?」
ダニエルたちがロランのもとに突撃してから数日後、女王陛下からの手紙を読んでいたロクサーヌに、ミュリエルがそう声を掛けた。
「あら?そんな風に見える?」
「はい。ここ数日、そう思っていたのですが、手紙を見ながら微笑んでいらしたので」
「そうね。陛下から、ロランのことを褒められたの。王家としても、このまま私たちの婚約に文句を言うつもりはないそうよ」
どうやらロランは、女王陛下のお眼鏡に適ったようだ。
手紙には、このまま騎士団にいるか、侯爵家でロクサーヌの補佐をするかは、好きなようにしていい、と書かれていた。
「そうですか。良かったですね。でも、それだけではなくて、何となくお姉様が変わったような気がします」
侯爵として仕事をしているロクサーヌの雰囲気が、何となく今までと違うのだ。
張り詰めていた空気が、柔らかくなっている。
「……ねぇ、ミュリエル。私、あなたに変わってほしかったの。私の補佐をするためだけじゃなくて、もっと自分のために生きてほしかったの。婚約者という縛りを絶って、恋だって好きなようにしてほしかったの」
「ならお姉様の願いは叶っていますよ?」
「そうね。ミュリエルだけが、この家の歪んだ教育の犠牲になってるって思い込んでたの。でもねぇ、本当に変わらなくていけなかったのは、私の方だったわ」
変わらなくてはいけなかったのは、ミュリエルではなくてロクサーヌ自身。
幼い頃から侯爵そのものとして教育され、失敗の一つも許されなかった。
他家では、親から爵位持つ者の仕事や矜持を教わり、近くで仕事を見て学んで、失敗しても頼れる大人たちがいた。
ロクサーヌには、頼れる大人などいなかった。
父が生きている間は、必要以上にギヨームや他の大人たちに近寄ることが許されなかった。
ギヨームも、父に止められていたそうだ。
父が亡くなった後、ギヨームに謝られ、そこからはずっと頼りにしてはいるが。
「お姉様、今日は家にいるのよね?」
「?いるわよ?出掛ける予定はないもの」
「じゃあ、夜、お姉様の部屋に行ってもいい?」
「どうしたの?突然。かまわないけれど……」
「いいから。夜に絶対に行くから、今日は一緒に寝てね」
「え?あ、ミュリエル!」
言うだけ言うと、ミュリエルはさっさと部屋から出て行ってしまった。
「えぇぇ?一緒に寝るの?」
もうお互い子供でもないのに、一緒のベッドで寝てもいいものだろうか……?
でも咎める誰かがいるわけでもないし、何より血の繋がった姉妹なのだ。
「……あの子、変わりすぎじゃない?」
呆れながらも、どこかで嬉しい気持ちがあるのをロクサーヌは自覚していた。
「お姉様、約束通り来ました!」
ノック音がしたので扉を開けば、寝間着姿のミュリエルが立っていた。
「はい、いらっしゃい」
ロクサーヌは、笑顔でミュリエルを招き入れた。
「あ!あのぬいぐるみ、飾ってくれたんですね」
壁際の台に置かれた時計の横に、可愛らしいくまのぬいぐるみが飾ってあった。
それは、ミュリエルがロクサーヌに買ってきたものだった。
ジェラールと出掛けた先の店で見かけて、なぜかロクサーヌにあげたいと思って買ってきたものだ。
「もちろんよ。可愛い妹が買ってきてくれたぬいぐるみですもの、大切にするわ」
「ふふ、嬉しいです」
ミュリエルの姉は優しい。
大好きな姉だ。
どうしてあの両親からこの姉が生み出されたのか、理解不能だ。
「で、どうして急に一緒に寝ようなんて思ったの?」
夕食時に聞いてもはぐらかすばかりだった妹は、さっそく姉のベッドに寝転がると自分の横をぽんぽんと叩いた。
ロクサーヌは、ベッドの横の小さなランプをつけると、部屋の明かりを消した。
薄暗い部屋の中で姉妹は、ベッドで向かいあって横になった。
「あのね、お姉様、思いっきり色々言いませんか?」
「色々?何を言うの?」
「お父様やお母様のことです」
「は?」
「だって、生きてる間は何も言えなくて、言っても聞く耳なんて持ってもらえなくて、でも死んだ後は、亡くなった方のあれこれを言うのは止めたほうが……とか他の方は言われますけど、こっちはまだ生きてるんです!お父様たちが亡くなっていようが、私たちにしたことが消えるわけではありません。嫌いだったところとかその他諸々、私たちしかいない今、言いましょう!」
「ミュリエル……」
「言葉に出してすっきりして、きちんと気持ちを整理しませんか?いつまでも、お父様とお母様のことを思い出したくないんです」
ミュリエルの言葉に、ロクサーヌはそれもそうかと思った。
生前の二人の姉妹に対する接し方をつぶさに知っているのは、この屋敷に住む者だけ。
その中で、あの二人のことを遠慮なく言えるのは、娘である姉妹だけだ。
仕えていてくれる人たちに、両親のあれこれを言えるわけもなく、心の中に言いたいことを閉じ込めていた。あの二人の良いところも言わなければ、悪いところも言えなかった。ギヨーム相手に愚痴は言ったが、本当に言いたかったことは言えなかった。
「お姉様も私も、もう解放されてもいいでしょう?私にはジェラール様がいますし、お姉様にもロラン様という方が出来て何だか吹っ切れた顔をしているので、この際、全部吐き出した方がいいかと思って」
「……そうね。頭の中で考えているより、言葉に出した方がすっきりするものね」
「はい。今夜で全部言い尽くして、明日から新しい姉妹として生きていきましょう!」
「極端ねぇ。ふふ」
でも、それもいいのかも知れない。
……きっとそれで、いいのだ。
「では、お姉様、言い出したのは私なので、私から言いますね。えっと、お父様の嫌いなところは、全部自分の思った通りに行くと思っていて、上手く行かないとムスッとしていたところです。お母様は、私たちの話を聞いているようで全く聞いていなくて、いつも適当に返事をしていたところです!」
「お父様ってそうだったわよねぇ。どうして、全てを自分以外の人のせいに出来たのかしら?ご自分が間違っていても、絶対他人のせいにして責めていたものね。それでお父様が間違っていると、強く否定しないのが悪い、否定してくれたらこちらが悪かったかと思うのに、とか言って、やっぱり他人のせいにしていたのよねー」
「絶対に謝りませんでしたよね」
「自分に都合の良い言葉にすり替えるのが上手かったわ。よくもまぁ、次から次へとぽんぽん言葉が出てくると感心したわ。そうそう、知っていて?ミュリエル。あれでも、お父様は、ご自分が部下や領民に慕われていると思っていたのよ」
「えぇー、有り得ないです。やってもいないことを責めてきて、言いがかりを付けてくる人のことを、どう慕えと?嫌われることしか、していないですよね?」
「やられた方はそう思っていても、やった方はそんな風に思っていないのよ。言いがかりとかでも、言ってあげた、とか、親切に教えてあげた、とかそんな風に上から目線で思っていたみたいよ」
そういえば、父が友人の家から帰ってきてものすごく不機嫌、というか、顔色が悪かった日があった。
「亡くなる少し前に、お父様がぶつぶつ言っていたのを聞いたんだけど、お友達と思っていた人が、学生時代からお父様のことを、的外れな発言をする勘違い野郎だって思ってたって言っていたんですって。誰も慕ってないのに気が付いていない、とも言っていたそうよ」
「……お父様、あれだけ自分は昔から友人が多い、とか言っていたのに……」
「残念ながら、表面上の付き合いだったみたいよ」
そしてそのことに、大人になっても気が付いていなかった。気が付いたのが、死ぬちょっと前とは皮肉なものだ。
「お母様は、無関心だったわよねぇ」
「はい。どうしてあそこまで、自分の子供に無関心でいられたんでしょうか?」
「元々、子供を産みたくなかったみたいよ。でもだからと言って、侯爵家の跡取りを自分の血を引かない人間にさせるのも嫌だったんですって。二人産んで、一人は当主、一人はその予備、それだけで十分という考えだったみたいよ。後は、自分が好きにする時間だと思っていたそうよ。産んで乳母と教育係に渡して終了、みたいな感じよ」
「そう言えば、あまり関わった記憶がないですね」
「ミュリエルは、寂しくなかった?」
「んー、そうですねぇ。お姉様が一緒にいてくれたから、そんなに寂しいと思ったことはない、かな。お姉様は?寂しくなかったんですか?」
「あまり他の家のことを知らなかったし、そんなものだと思っていたから。でも、あなたが生まれてきてくれて嬉しかったことは覚えてるわ。お父様から、二人っきりの姉妹だから、ずっと一緒に家を守れって言われて。その時は意味が分からなかったけど、ずっと一緒にいてくれる人が出来たと思って喜んだわね」
覚えてる。
ベビーベッドの中でもぞもぞと動いていた可愛い赤ん坊。
妹だ、と。
ずっと一緒にいてくれる妹の誕生に、誰よりも喜んでいた。
「成長するにつれてうちの家族が少々、他とは違い過ぎということに気付いても、両親をどうにかしようとは思わなかったわね。あの人たちはあの人たちの中で完結している世界があったから、今更そこに子供という存在は入り込めないと思ったのよ」
「確かに、それぞれ独自の世界の中で生きてましたね。親とか子供とかいう関係じゃなかったです。お姉様の言う通り、私たち抜きの世界で生きていた気がします」
「私たちのことを生きている自分たちの子供として見ているというより、便利な道具的な感じで見ていたわね」
「分かります!きっと子供が私たちじゃなくても、問題なかったですよね」
「多分ね。自分たちの血を引く邪魔しない都合の良い駒なら、姉妹だろうが兄弟だろうがどうでも良かったと思うわ」
「人格無視ですものね」
「こうして言葉に出してみると、ひどい親よねぇ」
ここまで来ると、むしろ清々しくて笑えてくる。
「だいっ嫌いだったわよ、あの二人。えぇ、やることなすこと、全部嫌いだったわ。親?何それ?美味しいの?状態にしてくれたあの二人は嫌いよ」
「私もです。だいっ嫌いです、あの二人。ついでに、お姉様を裏切った人たちも嫌いです」
「ミュリエル……」
ぎゅっと布団を握ったミュリエルの手が、微かに震えている。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……お姉様に心配ばかりかけてしまう自分も嫌いでした。でも、でも、ようやく少しだけ自分のことを好きになってきたんです。ジェラール様が、この家で生きる以外の道も教えてくれたから……!」
「えぇ」
「なのに、お姉様にはこの家で生きる道しかなくて……それはあの人たちが、無理矢理強いた道で……」
「……最初はそうね。でもね、今は私が納得して、やりたいからやっているのよ」
「本当ですか?」
「生まれた家を守る、その土地で生きる民を守る、お父様に言われた通り、教えられた通りに生きる。以前の私は、お人形みたいだったわね。でも今は違うわ。私がそうしたいと思ったからやっているの。その気になれば、そこそこ優秀な婿を取って丸投げ出来ることを、私自身がやりたくてやってるのよ」
婿を取って、監視だけして、自分は着飾って遊び歩くことも出来るけれど、そんなことをする気はない。
それこそロクサーヌにとっては、つまらない人生でしかない。
「仕事が楽しいのよ。領地が円滑に運営されて、新しい産業が生まれるのを見るのは楽しいわ。昔からの領民たちが、今年とれた作物の出来を教えてくれるのも楽しい。書類の上の数字ばかり見ているのではなくて、直接この目でたくさんのことを見て知るのは、とても楽しいわよ」
それは、父には教わらなかったことだった。
父は、書類上で全てを知った気でいて終わらせていた。
直接、領民に話を聞くなんてこともしない人だった。
ロクサーヌがそうしようと思ったのは、女王の言葉からだった。
『昔は自らの目で民の様子を見たくて、よく王宮を抜け出していたものだ。いつもシモンを連れ出していたのだが、あれをするな、これをするな、あそこに行くな、と言ってうるさかったのだ。だが、民が笑顔でいられるかどうかは、わたくしの仕事の結果次第だ。むろん、全ての民が笑顔でいられるとは思ってはおらぬが、活気溢れる国を作れねば、滅びるだけだ。そういった兆しや何かがあれば、一番最初に変化が起きるのは民たちだ。小麦の値段一つ取っても、例年より値上がりしているか、値下がりしているか、ほんの少しの変化がやがて大きな変化となることもあるのだよ』
女王の執務室に呼ばれた時に、女王がそう言っていたからだ。
それからロクサーヌは、護衛を付けてたまに町を歩いていた。
時にはその様子を女王に報告したりもした。
女王は、自分も行きたそうにしては、宰相に睨まれて諦めていた。
「お父様では出来なかった方法で、侯爵として領地を富ませていくつもりでいるわ。それこそ死人に口なしで、お父様には止められないもの」
ふふふ、と笑うと、ミュリエルがぎゅっと抱きついてきた。
「お姉様がしたいことをしているのなら、それでいいわ。お父様があの世で文句を言おうが、悔しがろうが知ったことではないもの。お母様が知らん顔をしているのなら、私がこの家から離れてもずっとお姉様のことを見ているから」
「ありがとう、ミュリエル」
ロクサーヌもミュリエルをぎゅっと抱きしめた。
「お姉様、もっと言いたいことを言ってしまいましょう。それで、もうお父様のこともお母様のことも忘れましょう」
「そうね。いい思い出のない死人のことを思い出しても、何も楽しくないものね」
姉妹は、さらに強く抱きしめ合い、二人が覚えている限りの両親の話をした。
「……本当に、さようなら。お父様、お母様……」
思い出は、もうない。
これから先、もう二度と話題にも出ないであろう二人に、姉妹はさよならを告げた。
それは、ロクサーヌとミュリエルの両親が、本当の意味で失われた瞬間だった。